医療法人社団 山中胃腸科病院【公式ホームページ】

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2024/10/15
2024/1/13

 悪夢は続くよ~~~どこまでも~~~

  旧医局2か所。

  旧医局に転職が決まった。

  しかし、職場を巡り巡っても、迷路のようになっていて仕事場に到着しない。

  旧医局2か所の景色がランダムに移りゆく。

  いつまでたっても仕事が開始できない。

  苛立ちより、絶望感が漂っていた。

  泣きっ面に蜂。

  すれ違うスタッフすべてに無視された。

  疎外感。

  小生は歓迎されていないと悟った。

  それでも歩き続ける。

  ようやく着いたら、誰もいなかった。

  業務終了時間。

  孤独感。

2024/10/14
ああ医者になりたい

まだまだ未熟としか言いようがない

 そもそも・・・大学受験に浪人経験

 あれあれ・・・大学院時代に留年経験

 まあまあ・・・臨床医としてひら医師の長い経験

 やれやれ・・・ようやく遅咲き内視鏡医に、、、ホームページに登場とか

熟年どころか、経験が足りない

思い出した2024/1/14の悪夢

何ともしつこい夢をみた

 まだ、浪人生活が続いていた。すでに3浪している。

 もう背水の陣の様子。河合塾のチューター(指導担任)にも緊張感あり。

 小生も焦燥感で疲労困憊であった。

 ・・・

 いきなり、博士号を取得する準備を始めた。発表は近い。

 たとえダメでもいいや。すでに医師免許はあるから大丈夫。

 そう、小生自身を慰めていた。

2024/10/13
2024/1/20の夢

 とんでもない夢をみた。

 旧職場。

 そもそも高次機能病院でない。

 そんなことは、誰でも知っている。周知の事実。

 それはともかくとして、そこにN先生が登場してきた。

 ここでも肝臓移植はできるんだと言いながら、平気に手術をしている。

 それも外来でやっている。

 簡単にのぞいて見えるが、マジで危険に感じた。

 腕は確かなように映って見えたけど・・・。

2024/10/12
「白い巨塔」 田宮二郎主演

もう45年ほど前になろうか?

 財前五郎が胃カメラを受けている(出血性胃潰瘍)。

 術後に黄疸が出て、心身ともに乱れた財前五郎。

 絶望感。実は胃癌末期。

このシーンだけは、子供ながらにはっきり覚えている。

 「白い巨塔」は、1978年6月3日から1979年1月6日まで放送されたテレビドラマ

 全31回。主演は田宮二郎山崎豊子小説「白い巨塔」の3度目の映像化作品。

胃がんのステージを見誤って(誤診して)、肺転移が疑われたにもかかわらず、精査せずに手術を断行した。

 かえって予後を短くしてしまう事態を招いてしまった。

 そして、家族(遺族)は納得がいかなかった。

 これが、最悪の訴訟に発展した。

 その後、リメイク版が出ている。

 フジテレビ系列で連続ドラマが1作品(2003年版)。

 テレビ朝日系列でスペシャルドラマが2作品(1990年版、2019年版)。

2024/10/11
「奴隷医に あると思うな 夏休み」

この一句について、人工知能(AI)に聞いてみました。

・・・この一句は、医師の過酷な労働環境を風刺しているように感じますね。

・・・「奴隷医」という表現から、医師が非常に忙しく、自由な時間がほとんどない状況を示唆しています。

・・・そして、「あると思うな 夏休み」という部分は、医師が夏休みを取ることがほぼ不可能であることを強調しています。

・・・この句を読んで、医師の仕事の大変さや休暇を取ることの難しさについて考えさせられます。

・・・医療従事者の方々の努力と献身に感謝しつつ、彼らの労働環境が改善されることを願いたいですね。

AIの回答に頭が下がる思いを抱きました。

2024/10/10
2024/1/27の出来事

奇妙な夢をみた。

 本命の女性が患者として、いきなり現れた。

 医師として、胃カメラ検査などで、全身の17か所を生検していた。

 かなり乱暴なことをしてしまったと反省した。

 診断はどうだったのか?・・・わからない。

2024/10/09
2024/1/26の出来事

危険な夢をみた。

場所は東京。

 亡き父と狭いアパートで二人暮らしをしていた。

 窓は大きなガラス張りで見渡し良好であった。

 父が「大阪でスズメバチが大量発生している。ここまでやってくるぞ、注意しろ」という。

 まさか、東京まではやってこないだろうと思っていたら、ガラスにスズメバチが数匹へばりついていた。

 ヤバいと思った。

 父は偉大と改めて悟った。

2024/10/08
2024/2/12の出来事。

納得できない夢をみた。

場所は四日市近鉄百貨店付近。

1. 高校時代の彼女が出現。よりを戻してくれた。しかし、すぐに裏切られて、姿を消した。

2. その後、近鉄百貨店内をうろうろ歩き回っているうちに、迷子になってしまった。
   献血センターらしきところに来たが、電気が消えていて休業中であった。
   その前に人がいて、「献血させてくれ、どうして休業なんだ」と叫んでいた。

3. 最後に、空港に向かった。東京に行こうと飛行機に乗った。飛行機は加速して、離陸し始めたが、飛ばず。引き返されてしまった。

2024/10/07
今年の目標の一つ「障がい者目線」

奇蹟の人 

 ヘレン・ケラー(Ms. Helen Adams Keller、1880~1968)

幼い頃(生後19ヶ月)、病魔(猩紅熱を契機に髄膜炎?)に冒され、聴力と視力、言葉を失ったヘレン。大きな障害を背負った彼女を、サリバン先生は暖かく励ました。ハンディキャップを克服し、博士号を受け、ヘレンは「奇蹟の人」となった。

グラハム・ベルはもともと聴覚障害教育の第一人者で、ヘレン・ケラーとアニー・サリバンを引き合わせた人物としても知られている。ちなみに、耳の日は、33(みみ)の語呂合わせや3が耳の形に似ていることと、電話を実用化したベルの誕生日から制定されたという。

目も見えず、耳も聞こえず、そのため話すことが困難という重度の障害「三重苦」を強いられながらも、その全生涯を教育と福祉、そして世界平和に尽力した。

猩紅熱の後遺症で、ヘレンの目と耳は永久に閉じてしまった。それでも、知性のひらめきを見せた。眼鏡をかけるまねをして父を表現し、後頭で髪を丸く結うまねをして母を表現した。

ヘレンは、昭和12年(1937年)、23年(1948年)および30年(1955年)の3回にわたって来日。1回目の(初来日の)時、財布を盗まれたという。この事件の報道後、盗まれた金額の10倍以上の寄付が日本各地から集まったという。また、塙保己一*の銅像と面会し、両手で銅像を触れたという感動的なエピソードがある。2回目の来日では、戦後間もない日本人に向け、全国で講演を行った。

*塙保己一(延享3年~文政4年、1746年~1821年、享年76歳)、武蔵国児玉郡保木野村 (現・埼玉県本庄市)生まれ

江戸時代後期に活躍した全盲の学者。7歳のとき、病気(肝の病)がもとで失明。12歳で母が亡くなり、15歳で江戸に出て学問の道に進んだ。多くの困難を経て、34歳で思い立ち、大文献集「群書類従(ぐんしょるいじゅう)」666冊をはじめ、散逸する恐れのある貴重な文献を校正し、一般庶民も読めるように次々と出版した。48歳時、国学研究の場として「和学講談所(わがくこうだんしょ)」を創設。多くの弟子を育て、生涯にわたって自分と同じような障害のある人たちの社会的地位向上に全力を注いだ。そして、文政4年(1821年)2月、盲人社会の最高位である総検校に就任。同年9月に天命を全うした。

ちなみに、温故学会に桜材による「群書類従」の版木が保存されている。その他、荻野吟子の女医誕生や小笠原諸島の日本領土証明に貢献したと言われる。

「世のため、後のため」という信念を貫いた塙保己一。豊臣秀吉や菅原道真を目指したという。

2024/10/06
甘酸っぱい夢

 現在の職場に、金沢時代の彼女が突然やってきた。

 3人の友人を連れてきている。

 4人が外来の椅子に並んで座って待っている。

 彼女は「結婚する」と小生にわざわざ報告に来たのだという。

 笑顔満載。

 小生が彼女に振られたという過去の事情を3人の友人は知らない様子。

 そんな雰囲気が漂っていた。

 昔のことは、二人(小生と彼女)の秘密と言いたげであった。

 彼女の笑顔は相変わらず可愛かった。

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