医療法人社団 山中胃腸科病院【公式ホームページ】

ブログ

2025/02/18
まんが「アルプスのハイジ」のロッテンマイヤーさん

クララのお世話をする家庭教師。厳格で規律を重んじる人物。

(子供の教育が終わった小生ではあるが、子供目線で考察してみた。)

利点:
規律を大切にする:きちんとした生活習慣を身につけさせる。勉強や食事の時間、マナーを守らせるなど。
責任感が強い:クララの健康や教育に責任を持ち、一生懸命にその役割を果たそうとしている。クララのために最善を尽くす姿勢がみられる。
組織力がある:家の中のことをきちんと管理し、すべてがスムーズに進むように気を配る。家庭内の秩序を保とうとする。

欠点:
厳しすぎる:厳格すぎて子供たちが楽しめない。ハイジ(フランクフルトではアーデルハイド)の自由を制限し、その厳しさは苦痛を生む。実際、ハイジはうつ状態になる。
感情を理解しにくい:子供たちの感情に寄り添うことが苦手。クララやハイジが困っている時にも厳しい態度を崩さない。
柔軟性に欠ける:自分のやり方に固執し、他の方法を試そうとしない。子供たちにとって窮屈である。

今も昔も感想は変わらない。

自閉症になりかかった完全管理されたクララ。ロッテンマイヤーさんのアプローチに教育的価値も多くあるけど、もう少し柔軟できめ細やかなサポートがあれば、もっとバランスのとれた教育者に映ったでしょう。
ただし、ハイジはアルムの山に帰って心身ともに回復したし、クララはそこで歩けるようになったし。フランクフルトに帰ってリハビリをしているクララに対して、ロッテンマイヤーさんは「アルムにまた行ける」と優しい言葉をかけている。

すべての者(登場人物)が、クララの回復(歩けるようになること)を心から祈っていたのでしょう。

2025/02/17
枕草子「にくきもの」

原文:
ものうらやみし、身の上嘆き、人の上言ひ、露塵のこともゆかしがり、聞かまほしうして、言ひ知らせぬをば怨じそしり、また僅かに聞き得たることをば、わがもとより知りたることのやうに、異人にも語りしらぶるも、いとにくし。

小生の訳:
何かにつけて他人のことを羨ましがり、(自分の)身上を嘆き、他人の噂をして、ちょっとしたことでも知りたがるくせに、聞きたいと思っても知らせてもらえないことに恨みを抱いて非難し、また少し聞きかじったことを、(自分は)はじめから知っていることのように他人に得意げに話すことも、ホントしゃくに障るわ。

小生の解釈:
このように訳しましたが、「性格悪って」感じますよね。
醜いですよね。だから、「にくきもの」?
いつの時代でも、多かれ少なかれ、このような輩はいるんじゃないかな。

2025/02/16
鈴鹿山脈の雪化粧

ああ寒い。それにしても寒い。

この時期、受験生は大変。お見舞い申し上げる。

寒さもストレスであろう。

春よ来い。早く来い。

「伊勢海老大漁」という電報が欲しいよね。

遠い昔、「伊勢湾にて座礁」という電報を受け取った。

そして、今がある。

「受験生 終わってしまえば みな楽勝」

そう言って、予備校仲間と別れた。

2025/02/15
2025/2/15

「真実は一つ」
かつて、恩師が小生に語ってくれた言葉

裁判は真実をもとに展開されているのであろうか?
刑事事件において、被告人は弁護士の言う通りに行動しているように思える。また、被告人の深層心理を踏まえていないように思える。

さて、「敗者の告白」は元弁護士である深木章子氏が執筆したミステリー小説。

アマゾンで購読した。年末年始の隙間時間に読破した。
小生は、敗者(敗走医)として生きてきた。そこで、「敗者の告白」という言葉に惹かれてしまったのである。

内容であるが、事件関係者の供述が大半を占める物語で構成されていた。各登場人物の告白で進行した。真実が徐々に明らかになってくるので、結末を早く知りたくなり、引き込まれた。確かに新鮮であったが、「もやもやして、何故かスッキリしない」が読後感だ。

弁護士としての経験が反映されたリアルな描写や人間心理の複雑さが巧みに表現されているのは事実だ。

弁護士なんだから、これに類似した裁判に関与したのだろうと疑心暗鬼に陥ってしまった。

人の評価は、社会的地位や財産ではない。平凡に生きていても幸せなことは多くある。「憧れ」や「羨み」に潜む人間の深層心理。両価性がある以上、つまり「心の陰と陽」がある以上、簡単に語れない。

まあ、自身の身分をわきまえて生きていれば、誰にも遠慮はいらない。

2025/02/14
徒然草143段 人の最期

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(本文)

人の終焉の有様のいみじかりし事など、人の語るを聞くに、ただ静かにして乱れずと言はば心にくかるべきを、愚かなる人は、あやしく、異なる相を語りつけ、言ひし言葉も振舞も、己れが好む方に誉めなすことこそ、その人の日ごろの本意にもあらずと覚ゆれ。

この大事は、権化の人も定むべからず。博学の士も測るべからず。己れ違ふ所なくは、人の見聞くにはよるべからず。

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(小生の現代語訳)

人間の臨終時、「安らかな様子で最期を迎えたそうです」と人から伝え聞く際、「静かに息を引きとりました」と普通に言ってくれればいいものを・・・。愚かな者は、あれやこれやと脚色して大袈裟に語るだけでなく、故人の言動や振舞いも歪曲して吹聴してしまう。故人の生前の様子からすれば、事実と異なって流布されることは不本意だろうと思ってしまう。

人間の死という重大事は、たとえ神や仏であっても定めることなどできない。また、博学の有識者であっても人間の寿命を予測できない。故人が本意のまま往生したのであれば、見聞によって故人をとやかく評価すべきではない。

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(小生の解釈)

他人の言動や行動に左右されず、自分自身を保つこと。つまり、ブレないこと。
他人の評価や意見に振り回されないようにすること。つまり、いちいち気にしないこと。
流行や世間の風潮に流されずに自分の信念を持つこと。やはり、ブレてはいけない。
加えて、他人干渉は最低限にとどめて余計なことは言わないこと。まあ、沈黙は金なり。触らぬ神に祟りなし。

2025/02/13
福井の雪

こんな感じと写メールがやってきた。
北陸の雪ってこんな感じだ。
覚えている。懐かしい。

福井という地名の由来
江戸時代初期にさかのぼります。
元々、現在の福井市周辺は「北ノ庄」と呼ばれていた。
1600年の関ヶ原合戦後、結城秀康(徳川家康の次男)が北ノ庄城を改修し、「福居(ふくい)」と改名した。
(大河ドラマ「葵 徳川三代」で、家康の御前で結城秀康が嘆願したシーンがある。)
「戦乱の世が終わり、福が来るように」との願いが込められている。
後に「福井」という表記に変わり、現在の地名となっている。

私も研修医時代にその地で医療を行った。福井県済生会病院。

2025/02/12
うれしい夢をみた

(起きたら、涙を流していた。)

祖父が出てきて褒美をくれた。
5万円。
ようやく小生の努力を認めてくれた。
感極まり、涙をこらえながら、隣りの妹の部屋に移動した。
母親が付き添ってくれた。妹はベッドで寝ていた。
起こすことなく、部屋から出てきた。寝顔も覗けなかった。
妹に報告できなくて、残念であった。

2025/02/11
ああ東京

東京在住時・・・。

地下鉄は便利である一方で、通勤には苦労したなあ。
すし詰め状態の満員電車。あれはつらかった。

銀座にも行ったなあ。日本の一等地。
ふぐのしゃぶしゃぶを堪能した。

築地にも行ったなあ。
海鮮丼を食べた。
近くに国立がんセンター中央病院も眺めた。
商店街も風情を感じた。昭和ってイメージ。

もう一度、行ってみたい。
あの時は、東京を満喫する心の余裕がなかったから。

2025/02/10
(その2)小生の感想

一つ壁を隔てたあちら側とこちら側で、お互いに壁の向こうから聞こえる「変な音」に、同じ頃同じように執着していた。しかし、一方の漱石は自らの死を意識していたが辛うじて生き残り、もう一方の隣人はあっけなく死んでいった。

漱石は、「胡瓜を卸す音」を「大根を卸す音」と想像していた。当たらずとも遠からずであったので、大きな差はないことになる。一方、死んでいった隣人は、「自働革砥の音」を「器械で運動する音」と思い込んで羨ましがっていたので、大きなズレがあったことになる。

医師である以上、ある患者が隣人患者の病状を知りたがる心理はよくわかる。お互いに相手に抱く心理状態は、病状を知っている医師が俯瞰すると、「アイロニー(皮肉)」である。病人の心理状態の奥深さを感じとることができた。

さて、きゅうりの汁(きゅうりの絞り汁やすりおろしたものを含む)である。ほてり(体の火照りや熱感)に対して一定の冷却作用が期待できる。

伝統医学(東洋医学やアーユルヴェーダ)において、きゅうりは「涼性食品」とされ、熱を冷ます作用がある。当時、(がんの)緩和ケアに有効とされていたのであろうか?

皮膚のほてりに対して、すりおろしたきゅうりをパックのように塗ったり、きゅうりのスライスを直接当てたり、きゅうりの汁をコットンに染み込ませてほてった部分に塗ったりする。体内からのクールダウン目的に、きゅうりのジュースを飲んだり、きゅうり入りの水(デトックスウォーター:アンチエイジング?)を摂取したりする。

2025/02/09
(その1)夏目漱石の短編小説「変な音」

「変な音」は、「思い出すことなど」の番外編にあたり、(漱石の)胃腸病院入院中の体験を扱ったものとされる。ちなみに、「思い出すことなど」では、漱石の吐血シーンが生々しく描写されている。

「変な音」は、ある病室にいる患者(漱石)が、他室の患者のたてる異常で敏感な「音」に関心をもつ話である。死にゆく患者と軽快退院してゆく患者の運命的な対照が描かれている。

つまり、生と死の「アイロニー(皮肉)」である。

生死の境を彷徨った漱石は、胃腸病院に2回長期間入院した。

「変な音」は、1回目入院(1910/6/18~7/31)を「上」として、2回目入院(1910/10/11~1911年2/26)を「下」として二つに分けて書かれたものである。

「上」のあらすじ

壁一枚で隔てられた隣室から大根を卸すような妙な音が聞こえて、(漱石は)気になって仕方がない。「それにしても、今頃何の必要があって、隣室で大根卸を拵えているのだか想像が付かない。」と感じていた。看護婦と患者の受け答えも聞こえるにもかかわらず、見当がつかない。

ある日、隣室患者は退院したらしい。(漱石も)後日、退院したが、音に対する好奇の念はすでに頭から消えていた。

「下」のあらすじ

自分(漱石)自身の病状の深刻さゆえに、あの音のことを思い出す余裕もなかった。同じ病棟の患者が続けざまに亡くなり、「3人のうち2人死んで(食道がんと胃がん)、自分だけが生き残ったから、故人に対して気の毒なような気がする」というありさま。

病気はやがて快方に向かい、あの妙な音の聞こえてきた隣室の担当看護婦に、(漱石は)たまたま病棟内で遭遇した。看護婦は先行して、「あの頃、貴方(漱石)の御部屋で時々変な音が致しましたが…」と自分(漱石)に尋ねた。それは、安全剃刀を研ぐための自働革砥の音だった。隣室患者は、「隣人(漱石)は大分快いので朝起きるすぐと、運動をする、その器械の音なんじゃないか羨ましいな」と繰り返しこぼしていた。

自分(漱石)の気にしていた音の正体がやっと判明した。胡瓜を擦る音だった。あの隣室患者の足が火照るので、看護婦が擦り卸した胡瓜の汁で冷やしていた。しかし、退院後まもなく亡くなった。直腸がんだった。

胡瓜の音で他を焦らして死んだ男と、革砥の音を羨ましがらせて快くなった自分(漱石)との相違を、(漱石は)心の中で思い比べた。

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