齋藤先生のブログ
- 2025/09/27
- 2025/09/26
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松坂城址、本居宣長記念館、そして多気VISONへ
〜歴史と現代が交差する一日〜 連載③さて、歴史にじっくりと触れたあとは、車で少し移動して、近年注目を集めている大型複合施設「VISON(ヴィソン)」へ。松阪市の隣、多気町の山間に広がるこの施設は、食、癒し、文化、アートが融合する“体験型リゾート”だ。
歴史の静けさから一転、ここは活気に満ちていた。まずは、腹ごしらえ。飲食店が軒を連ねる「和ヴィソン」エリアで、地元食材をふんだんに使ったランチをいただいた。素材の良さが際立ち、観光地価格を感じさせない満足度の高さだった。
食後は、スイーツ巡り。暑さの中、つい引き寄せられるのは冷たいコーヒージェラートやスイーツ。VISONの魅力は、どこか都会の商業施設とは違い、“その場で作られているもの”の臨場感があること。食べ歩きしながら、まるでひとつの町を探検しているかのような楽しさがあった。
しかし、真夏の午後。炎天下の中を歩き続けるのは、なかなか過酷だった。汗をかきながらも、地元産の炭酸水や塩飴でなんとかエネルギーを補給し、時おり木陰で一息つきながら、最後までVISONを満喫した。
夕方、帰路につく車中で、ふと今日一日を思い返した。戦国の城と、江戸の知識人の足跡、そして現代のにぎわいと食の宝庫。すべてがわずか数キロ圏内で味わえる松阪・多気エリアの懐の深さに驚かされた。
「歴史を学ぶ」ことと「今を楽しむ」ことは、決して別のことではない。過去を知ることで現在が豊かになり、今の体験がまた、未来の思い出を形づくる。
松坂城址、本居宣長記念館、そして多気VISON。すべてが一続きの“心の旅”だった。 - 2025/09/25
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松坂城址、本居宣長記念館、そして多気VISONへ
〜歴史と現代が交差する一日〜 連載②城址から下ってすぐの場所にあるのが、「本居宣長記念館」だ。江戸中期の国学者・本居宣長は、松阪の町医者でありながら、『古事記伝』などの大著を著した知の巨人。
館内には、宣長の自筆の原稿や書簡、和歌、生活道具などが整然と展示されており、彼の思索の深さや誠実な人柄が伝わってきた。
敷地内に保存された旧宅「鈴屋(すずのや)」は質素ながらも気品があり、今にも宣長が机に向かって筆をとる姿が目に浮かんだ。江戸時代の国学者として名高い宣長は、この地に生まれ、生涯をかけて『古事記』や『源氏物語』を読み解いた。自宅兼診療所「鈴屋」にて、町医者として生計を立てつつ、夜な夜な机に向かって筆を走らせたという。記念館に併設された鈴屋を訪ねると、こぢんまりとした部屋に書物と硯、灯りが再現されており、当時の生活がまざまざと感じられる。宣長が唱えた「もののあはれ」の思想には、人の心の機微を丁寧にくみ取ろうとする優しさが滲む。学問とは、ただ知識を積むことではなく、人の本質に近づく営みである──そんな静かなメッセージが、この松阪の一角から今も発せられているように思えた。
- 2025/09/24
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松坂城址、本居宣長記念館、そして多気VISONへ
〜歴史と現代が交差する一日〜 連載①三重県松阪市──この町には、歴史の重みと現代の息吹が不思議と調和している。
今回の旅は、松坂城址と本居宣長記念館、そして今話題の大型複合施設・多気VISON(ヴィソン)を巡る一日。
歴史と文化、そして食と癒しをたっぷり味わうことができた、記憶に残る旅となった。
朝、松阪インターから降り立つと、空は夏らしい澄んだ青空。強い日差しの下、まずは松坂城址を目指した。緑に包まれた高台に立派な石垣が見えてくる。かつて蒲生氏郷が築いたこの城は、天守こそ現存しないが、石垣の威容には見ごたえがあった。本丸跡に登ると、眼下に松阪の町並み、遠くには伊勢湾のきらめきが見渡せた。蝉の声が降り注ぎ、石垣の間から吹き抜ける風が心地よい。往時を偲びながらしばし腰を下ろすと、時の流れが静かに心を洗ってくれるようだった。
- 2025/09/23
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格闘技の宿命
悲しいニュース・・・プロボクシングのOPBF東洋太平洋スーパーフェザー級、日本同級5位の神足茂利さん(M.T)が(2025年8月)8日午後10時59分に死去した。28歳だった。(6日前の8月)2日に後楽園ホールで行われたOPBF東洋太平洋スーパーフェザー級タイトルマッチで王者の波田大和(28、帝拳)に挑戦したが、試合後に意識を失い、都内の病院に救急搬送され「急性硬膜下血腫」で開頭手術を受けていた・・・。
ご冥福を祈ります。
命をかけて戦う格闘技。だから、ファイトマネーも高い。
小生には真似できない。プロとはそういうものなのか?
- 2025/09/22
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初めて見る夢
中学校時代の同級生S君と私の二人で京都旅行に行った。車でなく、電車で行った。ホテル8階に行くために、エレベーターに乗った。一人、見知らぬ人(A)が一緒に乗っていた。7階で止まったが、その階はすべて寝室になっていた。8階についたら、ホテルの案内人がいて、まだ準備ができていないとのことで、食事は何時にしますかと聞かれた。午後8時にすると言って、S君と私は、エレベーターで1階まで降りた。見知らぬ人(A)も一緒に降りた。1階に着いたところで、Aはどうして車で来なかったのかと理由を聞いてきた。駐車場がないからと私はAに言った。
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ChatGPT-5による夢判断は以下の通り。
この夢は、いくつかの象徴的な要素が組み合わさっていて、心理的には「今のあなたが置かれている状況」や「対人関係での距離感・準備段階」を表しているように見えます。順に整理します。
- 中学時代の同級生S君と京都旅行
同級生は、あなたの過去の一面や、当時の価値観・感情を象徴します。S君は安心感や信頼できる関係のメタファーかもしれません。
京都旅行は、文化・学び・精神性への関心を意味します。何かを深めようとしている過程や、非日常への移行を表す場合があります。- 電車移動 vs 車移動
電車は決められた路線・ルートを使うことから、「個人の自由よりも既存の枠組み・集団の流れに乗って進む」ことの象徴です。
車で行かない理由が「駐車場がない」=目的地に個人で自由に動けるスペースがない、つまり今は自分のペースで動きにくい状況を暗示します。- エレベーターで7階・8階へ
エレベーターは心理的な上下移動=「意識の階層を移動すること」を意味します。
7階(寝室フロア)は「休息・準備・まだ行動の前段階」。
8階は目的地ですが、「まだ準備できていない」と案内される=目標は見えているが、タイミングがまだ早い状態。- 食事時間を午後8時に設定
食事はエネルギー補給や人との交流の象徴。時間を指定するのは、今後の行動予定や心の準備に関する「猶予期間」を自分で決めていることを示します。
「8時」という数字は、完成や充実の手前、または新しいサイクルの始まり(8→∞の形)を意味します。- 見知らぬ人(A)の存在と質問
Aは、あなたの中の未知の側面や、最近出会った新しい価値観の象徴。
「なぜ車で来なかったのか」という質問は、あなたの行動選択や戦略に対する問いかけ。自分でも「なぜこの方法を取ったのか」と確認している心理が反映されています。まとめ(心理的意味)
この夢は、- あなたが「新しい経験や学び(京都旅行)」に向かっているが、まだ準備段階(8階が準備中)
- 現状は自由度の高い方法(車)ではなく、安全で決まった方法(電車)を選んでいる
- 心の中で「今の選択で良いのか?」という自己確認が進んでいる
- 過去の安心できる人間関係(S君)を支えにしながら、新しい状況に向き合っている
というプロセスを映しているようです。
もしこの夢が最近のあなたの心境と重なるなら、「タイミングを待ちながら準備を整える時期」と言えます。おそらく急がず、でも「午後8時」に向けて、着実に階を上がっていくイメージが良さそうです。
- 2025/09/21
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同じような経験のある医師は多いはず
気になるニュース・・・京都府亀岡市立病院は(2025年8月)7日、同市の70歳代男性に行ったコンピューター断層撮影装置(CT)検査の結果を、適切な治療に生かせない医療事故があったと発表した。同院は男性に謝罪し、現在受けている治療の費用を支払う予定という。発表では、男性は2021年1月、胸の痛みを訴えて救急外来でCT検査を受け、画像診断で腎臓がんの疑いが指摘されたが、再検査は行われなかった。その後の24年10月、別の症状でCT検査を検討した主治医が、再検査されていないことに気づいた。改めて検査したところ、進行性の腎臓がんが見つかり、男性は別の病院で治療中という。・・・
かつて、ある患者の腎臓がんを小生がみつけた。しかし、4年前に某科でMRIを撮影していた。なんと腎臓に腫瘍が写っていた。ダブルチェックも異常なし。ただし、言い訳になるが、腎臓の腫瘍の評価は難しいと思う。泌尿器科に相談する姿勢が必要である。
- 2025/09/20
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夢に息子が登場
私には息子がいます。車の免許は持っていますが、私は息子の運転する車に乗ったことはありません。夢で初めて乗せてもらいました。
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ChatGPTに夢判断をお願いしました。
とても興味深い夢ですね。夢には個人的な意味が強く含まれるため、夢主であるあなたの状況や感情が大きく関わってきますが、以下に一般的な夢判断の観点から読み解いてみます。
夢の要素のポイント
息子さんが運転している
あなたがその車に初めて乗っている
夢の中での「初めての体験」「息子が運転する車に乗る」夢の意味
この夢は、象徴的に「息子さんが人生のハンドルを握り、あなたがそれを見守っている(あるいは身を委ねている)」という構図を表しています。車の運転:「自己のコントロール」や「人生の進路」の象徴。
息子が運転: 息子さんが自立して自分の人生を切り拓いていることの表れ。
あなたが助手席や後部座席にいる: 息子さんの人生を信頼して任せる、または少し心配しながら見守っている気持ちの表れかもしれません。「初めて乗った」という部分の意味
これは、現実でまだ経験していないこと(=息子の運転で移動する、人生を任せるなど)に対して、あなたの心が段階的に受け入れようとしている過程を表しているとも考えられます。
「初めて乗った=これからそういう関係性になる準備ができつつある」とも解釈できます。夢が伝えている可能性のあるメッセージ
息子さんの成長を心のどこかで認め、受け入れ始めている。
まだ少し不安があるけれど、自立を応援しようとしている。
あなた自身が「母としての役割」から一歩引き、見守る立場へ移行している。夢の中でどんな気持ちだったかが重要です
安心して乗っていた? → 息子の成長を素直に喜んでいる。
不安だった? → 自立を理解しつつも、まだ心配な気持ちがある。
感動や感慨深さを感じた? → 子育ての節目を迎え、感情が整理されつつある。・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
私的には、不安+感慨深さです。
- 2025/09/19
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無知の恥
国学者として著名な本居宣長(1730–1801)。
生涯にわたり松坂(現・三重県松阪市)で町医者としても活動しており、その医学的側面、とくに漢方(和方)医としての実践にも注目されている。
大先輩の漢方治療はどんな感じだったのか?
幼少より学問好きで、京都の医学者・奥村玄仲のもとで漢方を学んだ。帰郷後は、松坂で町医者として50年以上にわたって開業しながら、学問を続けた。
医術は「古方派(こほうは)」と呼ばれる流派に属していた。古方派は、中国・後漢時代の「傷寒論(しょうかんろん)」や「金匱要略」などの古典的な医学書に立脚した実証的治療を重視した。特に、「証(しょう)」、すなわち病状に合わせて処方を決定する立場で、煩雑な理論よりも臨床経験を重視した。
治療は、急性疾患に対する標治(対症療法)と体質改善などを含めた本治(根本治療)のバランスが取れていたと考えられている。
傷寒論に基づいた処方を使用しつつも、患者の暮らしや気質を読み取り、丁寧に病因を探った治療方針を採っていた。
主な処方は以下の通り。葛根湯(かっこんとう)を風邪の初期や肩こりに使用。小柴胡湯(しょうさいことう)を感冒後の微熱や胸脇苦満(季肋部痛)に使用。真武湯(しんぶとう)を冷えや下痢、心窩部痛に使用。桂枝湯(けいしとう)を虚弱な人の風邪初期の風邪に頻用した。
一日に20~30人を診ることもあったとされる多忙な診療の日々。「病人の話をよく聞き、慎重に判断することを重んじた」という記録があり、今日のプライマリ・ケアに通じる姿勢を持っていたとも言える。一方で、迷信的・呪術的医療には否定的であり、当時に科学的態度を保とうとした点で先進的であった。
以上まとめると、本居宣長は古方漢方を実践した実力派の町医者であり、単なる理論家ではなかった。彼の医療姿勢は、観察と対話、そして古典への深い理解に支えられた実証主義的なもので、「人を全体として見る」という現代的な医療倫理とも共鳴するものがある。
身近に学問好きな漢方医が存在しただけでも励みになるなあ。
- 2025/09/18
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貴重な経験
問題1:ヒトは飲まず食わずで、何日生きられるのか?
飲まず食わずの状態でヒトが生きられる期間にはいくつかの変数がある。
一般的に水分がない場合、数日から1週間程度が限界とされる。
食物がないだけであれば(水分があれば)、1~2ヶ月生き延びることができるという。
しかし、さすがに水分が不足すれば、体の機能が急速に低下する。
脱水症状や電解質バランスの崩れが早急に生命を脅かすことはあきらか。医師として、わずかな経験。3名のみ経験し、14日、10日および10日であった。
すべて認知症で、家族が何もしないで欲しいということで、飲まず食わずの状態でこの結果であった。
問題2:心不全(心臓病)の薬、何日間の休薬(飲み忘れ)で死亡する?
重症心不全患者であれば、数日の服薬中断でも命に関わることがある。
すでにギリギリの状態の心不全患者(入退院を繰り返すような症例)では、1~3日の飲み忘れが命取りになることもある。
安定している軽度心不全患者でも、1週間以上の服薬中断で状態が悪化する例は多いという。
特殊な薬の中止で突然死リスクが上がることがある。小生の経験上、心不全の患者さんが4日間の飲み忘れで、2名が亡くなっている。 飲み忘れの怖さを、思い知った。
ラテン語で「死を忘れるな」という意味。
中世ヨーロッパからルネサンス期にかけて広く使われた警句。
「いずれ死ぬ身であることを意識し、今を正しく生きよ」という人生訓。
キリスト教世界では、死を神との最終的な出会いとして捉え、贅沢や傲慢を戒め、謙虚な生き方を促す標語として広まる。美術や文学では、骸骨・砂時計・枯れた花など「死の象徴」を通じて表現されることが多い。
人生のはかなさを認識し、現在の瞬間を大切にすることを促す教え。中世ヨーロッパでは、修道士たちが日々の生活の中で死を意識し、霊的な成長を促すために用いられた。
古代ローマから現代に至るまで、様々な人々にインスピレーションを与え、思想や芸術作品にも強く影響を与えている。
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本居宣長との関係性
本居宣長(1730–1801)は江戸時代の国学者で松坂の町医者。
彼の思想や著作の中に、「死を自覚し、日々を真摯に生きる」視点が垣間見られる。
死生観の共通性
宣長は『玉勝間』などで、人の命のはかなさや無常感を繰り返し述べた。特に、病人を診る医師として、死の不可避性を日常的に感じ、それを受け入れる姿勢を説いた。
もののあはれとのつながり
宣長の美学「もののあはれ」は、人生や自然のうつろいに感じ入る心。死や別れも「もののあはれ」を深く感じさせる契機であり、これはMemento mori的な死の意識と響き合う。
行動への転化
宣長は死の意識を単なる恐怖や諦めで終わらせず、「今を正直に、和やかに生きる」方向に導いた。西洋のMemento moriが宗教的救済へ向かう傾向があるのに対し、宣長は日本的情緒と倫理観を通して日常の心がけに落とし込んだ。