齋藤先生のブログ
- 2023/11/07
- 2023/11/06
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医療機関は本当に儲かっているのか?
財務相の諮問機関である財政制度等審議会の分科会の提言によると、11月1日、診療所(ベッド数20床未満)の診療報酬について、「極めて良好な経営状況を踏まえ、報酬本体をマイナス改定にすることが適当」とされた。
医療分野においても、寒い嵐が吹き始めた。
医療の質を向上を追求すべきご時世。
2024年度は診療報酬の改定年にあたる。
ましてや医師の働き方改革元年と重なる。
財政難を何とかしないといけないのは理解できるが・・・。
少子高齢化問題を打開しなければならないわけで・・・。
医療費削減の前に解決できる要素はないのか?
聖域なき改革ができないのだろうか?
もうしばらく、岸田内閣の政策を静観していきたい。
- 2023/11/05
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ある春の思い出
もう10年以上前になる。学会で東京へ。
学会発表後に隙間時間を使って、東京スカイツリーを見学。
滞在時間30分程度。3階までしか行けなかった。
天気は快晴。青空が爽快感を増幅。この頃は、「高さ」を求めていたように思う。恥ずかしい。
一時好転したかにみえた人生も、やがて崩壊していった・・・。
前向きにやってきても、身分をわきまえなければ、せっかく頂いた肩書も意味をなさなかった。
考えが甘かった。小生自身を恥じた。求めるものは「高さ」でなく、「広さ」と「深さ」である。上ではなく、横と下である。
これでも、十分価値があるように思う。終活第3幕継続中。健康に留意してやっていこう。
- 2023/11/04
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ああ、7年前は無職だった!
当院に入職する前、非常勤医師として外来および当直を担当していた。
11月上旬、神戸の学会に行く途中、大阪城に立ち寄った。初めて、間近で眺める大阪城。荘厳という表現がふさわしいだろう。天に届きそうな勢いを感じた。快晴という天候がより一層そう感じさせた。
一方、適応障害悪化の一途をたどった小生は、人生のどん底にいた。この頃、「高さ」を求めてはならないと悟った。その代わりに、「広さ」と「深さ」を求めたらいいことにふと気づいた。
「広耕深掘」の誕生である。そして、這い上がって今がある。苦難を乗り越えた後、目に映った光景にウソはないだろう。
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また、いい夢をみよう。いつかみよう。きっとみよう。 - 2023/11/03
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漢方を学び直す、漢方を学び治す
日本臨床漢方医会 漢方家庭医
齋藤孝仁(元認定漢方医)はじめに:
日本東洋医学会漢方医学認定医を11年間維持した。その後、単位取得済でありながら(もう5年認定医継続可能であったが)、更新せずに退会した。自動的に、漢方医学(東洋医学)における資格を失った。ただし、日本の医師免許は、西洋医学だけでなく、東洋医学までも医療可能となっている。
学会の定期講演会は、日曜を含むことが多い。病棟業務を含む勤務医にとって、なかなか出席しづらい。近隣の都市で開催されればありがたいのであるが、遠方ならかなり厳しい。さらに、日曜診療の病院勤務ではなおさら厳しい。学会の単位取得も困難で、会場で参加費を払って短時間の滞在で戻ってくることが多かった。資格維持の苦悩を感じた。しかし、漢方薬は不可欠:
臨床現場において、漢方薬がどうしても必要な状況が存在する。ゆえに、西洋医学だけでは成り立たないことも多い。漢方薬単独だけでも有効なことあり。西洋薬の隙間を埋める処方も少なからずあり。もちろん、飲み合わせが許せば、西洋薬と併用することもあり。
そこで、漢方を学び直すために、日本臨床漢方医会に電撃入会。数日間でセミナーを視聴し、その後、試験を受けて漢方家庭医を取得した。漢方を学び、(患者を)治す気持ちを新たにした。以前より(もう10年以上前から)、四日市医師会東洋医学研究会で講師を担当していたので、どうしても無冠を避けたかった。
新たな気持ちで再出発するのも悪くない。違うものが見えてくる。知らなかったことも多く再発見。試験問題を解いただけでも(辛うじて正解にたどり着けたが)、勉強し直して有意義な時間を頂けたことに感謝している。最後に:
これからも漢方を学び治す機会をつくっていきたい。海岸で見つけた貝殻アート💛
- 2023/11/02
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野原いっぱいのコスモス
これは癒されますね。
この規模のコスモス畑はあまりないですね。
モンシロチョウ・モンキチョウ・ルリシジミも散見されました。
山は緑。紅葉傾向。晴天の青空。
緑・青・白・赤・ピンク・黄・紫のハーモニーでした。
- 2023/11/01
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2023/11/1 ブログ
金沢を離れて20年が過ぎた。四季のある学都に憧れて、受験し入学できた。「雪の降る日に炬燵に入ってみかんを食べる」というささやかな夢は叶った。
風の便りによると、金沢市の城北病院に70歳の研修医が奮闘しているという。まだまだ、加齢を言い訳にできない。あっぱれである。
金沢を紹介するにあたり、まんが日本昔ばなしの「芋ほり長者」および金沢民話の「芋ほり藤五郎」(いずれもYou Tubeで鑑賞できる)がわかりやすいだろう。金の価値を知らない芋ほり名人。少々抜けたところがあるも誠実な性格。貧乏だけども幸せな生活。
長者の娘(後に嫁)もまいった。そもそも観音様のお導き。そして、長者になっても名人技は続ける。金より名人芸。貧乏時も長者時も子供にからかわれる憎めない性格。これもまたあっぱれである。藤五郎が黄金を洗った泉は、現在、兼六園の南側にある「金城霊沢」だそうだ。「金を洗った沢」つまり「金洗い沢」が、省略されて(短くなって)「金沢」となる。「金沢」の地名の起源といわれている。
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「イモほり藤五郎」<あらすじ>
昔々、加賀の国の山里に「イモほり藤五郎」と呼ばれるヤマイモ掘りの名人がいた。藤五郎はヤマイモを掘って、それを米や食べ物と交換し、貧乏なその日暮らしをしていた。
ある日、藤五郎がヤマイモ掘りに出かけている間に、美しい嫁御と嫁入り行列が藤五郎の家にやって来た。村人達は驚いて、家の周りは黒山の人だかり。やがて藤五郎が帰って来て、驚く間もなく、嫁御は「大和の国、長谷村の長者の娘の“かずこ”です。」と名乗った。観音様のお告げにより、藤五郎の所に嫁に来たと言った。藤五郎は困惑したが、仕方なくかずこを嫁にした。
ところが、その年は長雨が続き、藤五郎はヤマイモを掘りに行くことができず夫婦は暮らしに困っていた。すると、かずこは嫁入り道具の中から小判3枚出して米と交換してくるように促し、藤五郎に渡した。藤五郎は小判を見るのも初めて、それどころかお金というものがこの世にあることさえ知らなかった。小判の価値が分からない藤五郎は、小判3枚と笊(ざる)一杯の米を交換して帰って来た。それを知ったかずこは、「私はなんて馬鹿な人の所に嫁に来てしまったのだろう」と嘆いた。そこで、藤五郎は怒ってかずこに実家に帰るよう言い渡した。
かずこは実家に帰る前に、ふと気になって家の納屋に寄ってみた。納屋の中には藤五郎のイモ掘り用の籠があり、その中には土に混じった砂金が一杯詰まっていた。かずこは驚いて藤五郎を呼んで、いつもヤマイモを掘っている山に連れて行ってもらった。すると、その山からは砂金がいっぱい出てきた
こうして、藤五郎とかずこは大金持ち(長者)になって、何不自由ない暮らしができるようになった。その後も、藤五郎は相変わらずヤマイモを掘って暮らした。 - 2023/10/29
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2023/10/29 ブログ
怪しい夢をみた。
舞台はかつてクビになったD病院だった。
そこで仲の良かったナース(男性)が出てきて、「戻ってきてもいいよ」と言ってくれた。院長も許可(歓迎)してくれているという。
確かに、小生の前で電話しながら、確認済のようで、「大丈夫」と頷いている。
しかし、小生は、D病院内にある池の中を泥まみれで歩いたり、地下道を彷徨ったりしていた。むしろ、病院内で院長に遭遇しないように逃げ回っているようだった。
最後に、見知らぬ医師(男性)に出くわしたが、無表情のまま、無視して去っていった。小生の深層心理はいかに?
仲の良かったナース(男性)はすでに退職しているという情報はある。
一見、よさげな印象であるが、実際は怪しい誘惑のように感じる。夢の中でもそれを避けようとする行動がみられる。
「甘い勧誘に引っかからないようにしろ」という戒め(何らかのお告げ)なのか。慎重に見極める必要がある。 - 2023/10/23
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2023/10/23 ブログ
不気味な夢をみた。
場所はD病院。
1.その1
15時45分頃、回診を忘れた患者がいたので、エレベーターに乗った。
途中、エレベーターが止まり、扉が開いた。
態度のデカいT理事長が乗り込もうとしてきた。
ヤバいと思って、急いで飛び降りた。2.その2
糖尿病の研究会に出席していた。
次の発表は小生。待機していた。
突然、正面入り口から、T理事長が入ってきて着席した。
ヤバいことになった。小生の発表は内密にしていたので。
どうして来たかわからない。絶体絶命。小生の夢判断。深層心理はいかに?
T理事長には、常に監視されていたような気がする。
干渉しないと言いながら、チェックされていたのであろう。
要注意人物として。その記憶がよみがえったのだろう。 - 2023/10/22
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2023/10/22 ブログ
ある秋の思い出 ~和歌山の旅~
昼の和歌山城
夜の和歌山城
天正13年(1585年)、紀州を平定した豊臣秀吉は秀長(弟)に命じ、紀ノ川左岸の虎伏山に和歌山城を築かせた。初代城代として秀長の家老(桑山重晴)が入城した。
元和5年(1619年)、徳川頼宣(家康の十男)が入城。以降、御三家の紀州徳川家が明治まで続いた。ちなみに、紀州徳川家出身の吉宗は第8代将軍。
弘化3年(1846年)、天守が落雷による出火で焼失。嘉永3年(1850年)、ほぼ同じものが再建された。昭和20年(1945年)、和歌山大空襲で再び焼失。昭和33年(1958年)、復元された。
はるか昔に、御在所の頂上まで行った覚えがある。
赤いロープウェイ。ああ懐かしい。
自力で登山したこともある。1212メートル。
ちょうどこの頃だった。確か19歳の時。
頂上付近で雪に降られた。汗が冷えて、寒くて遭難しかけた。
生きているうちに、もう一度行きたいなあ。