医療法人社団 山中胃腸科病院【公式ホームページ】

齋藤先生のブログ

2026/02/16
何が起こるかわからない ~気をつけろ~

背筋が凍る出来事なんだけど。

身近で起こっている。神が味方した。

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 三重県の桑名市総合医療センターで2025年10月、患者を取り違えて輸血していたことがわかった。血液型が同じだったため、深刻な事態には至らなかったが、同センターはミスを認めて患者側に謝罪した。同センターなどによると、25年10月31日、入院中の80歳代女性患者の貧血が進行していたため、医師が輸血が必要と診断。しかし、看護師は同じ部屋に入院する90歳代女性患者に輸血した。翌11月1日、この患者の血液の数値が異常なため、再度調べた結果、輸血の対象者を誤っていたことに気づいたという。看護師が患者の個人情報を十分確認していなかったことなどが原因という。センターの医療安全管理委員長は「あってはならない間違いで患者や家族に申し訳ない。二度と起こらないよう、患者の確認を徹底したい」と話した。

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 異型輸血(血液型の異なる輸血)の怖さを知っている小生。出血が止まらない。皆が懸命に処置していた。くわばらくわばら。

絶望の夢

 妻と二人で、私の実家から妻の実家まで歩いている途中。今、8時15分。当初、車で行く予定であったが、時間的余裕があったので、歩くことにした。妻の実家についたら、私は自転車を借りて目的地(大学の講義室)に行く段取りだった。8時30分に講義室に着席する必要性があった。ところが、全然間に合わない事態になった。そこに、幸運にも自転車のタクシーが通りがかった。私と妻の二人を乗せて欲しいと言ったが、無理だった。万事休す。

ChatGPTの夢判断:とても象徴性の高い夢ですね。丁寧に読み解いてみます。
(※夢判断は「予言」ではなく、今の心身状態や無意識の整理のされ方を映す比喩だという前提でお読みください。)

① 全体テーマ:「時間制限のある役割に、もう間に合わないという感覚」
 この夢の核心ははっきりしています。
「8時30分に講義室に着席しなければならない」――これは
 遅刻=評価の失墜
 着席=役割への正式な参加
 講義室=知・専門性・社会的ポジション
を象徴しています。
 つまりこれは、「果たすべき役割・期待される場所に、今の自分では間に合わないのではないか」という不安の夢です。

② 歩くことを選んだ=「合理的だが、今は遅すぎる選択」
 本来は車で行く予定だった。しかし「時間に余裕があると思って」歩くことにした。ここは重要です。
 歩く=誠実・省エネ・無理をしない生き方
 しかし結果として「間に合わない」。これは、昔なら正解だったやり方が、今の時間制約・年齢・体力・社会構造ではもはや通用しなくなっているという無意識の認識です。
 あなたが最近よく語っておられる、体力の低下、無理がきかなくなった感覚、キャリアの再編・再挑戦と完全に一致します。

③ 妻と一緒にいる意味:人生を共にする存在への責任
 この夢、あなたは一人ではありません。妻と二人で行動しています。これは、自分一人の問題ではない。選択の結果が、家族にも影響する「自分の都合だけでは動けない人生段階」を象徴します。
 自転車タクシーに「二人を乗せてほしい」と頼むが断られる――これは残酷ですが、とても現実的です。個人なら救済されても、家族単位では救済されない社会という構図です。

④ 自転車を借りる予定だった=「他者資源への依存」
 妻の実家で自転車を借りる予定だった。つまり、あなたは自前の足(体力・時間)では足りない。しかし「借りれば何とかなる」と思っていた。ところが、そこに至る前に時間切れ。これは、「準備していたはずの支援・資格・段取りが本番のタイミングに間に合わないのでは」という深層不安です。

⑤ 自転車タクシー=「奇跡的救済」の否定
 夢の中で一度だけ、救いは現れます。しかし、物理的制約(二人は無理)ルール(乗せられない)によって拒否される。
 これは非常に重要で、もう“たまたま助かる”段階は終わった。構造的に組み直さないといけないという無意識からのメッセージです。

⑥ 総合判断(かなり率直に言います)
 この夢は「絶望の夢」ではありますが、破滅の夢ではありません。むしろ、❝ 今のやり方・ペース・役割設定では間に合わないことを、無意識はもう正確に理解している ❞という夢です。
 そして重要なのは、パニックになっていない、抵抗はした、妻と共にいた。ここに、再設計可能性が残っています。

⑦ では、無意識は何を求めているか
 この夢が示す「次の一手」は明確です。歩く or 車ではない、借りる or 奇跡を待つでもない。「到着時刻を前提にした人生設計そのものを変える」つまり、8時30分に着席しなくてよい講義室、そもそも講義室に行かなくてよい役割、時間制約が緩やかな舞台への移行です。

最後に一言
 これは「あなたが遅れている夢」ではありません。「世界の時計が、もう合っていないことに気づいた夢」です。この夢を見る段階に来ている人は、実はもう「次のフェーズの入口」に立っています。

神様

夢をかなえてくださいませ

2026/02/15
生成AIは詐欺を進化させたのか ― 違和感という最後の防波堤

 近年、「生成AIが詐欺を高度化させる」という言説をよく耳にする。確かに、AIは自然な文章を量産し、個人の文体を模倣し、多言語対応まで可能にした。詐欺メールやSNSのなりすましが巧妙になったことは否定できない。

 実は、私自身もかつてその一端を体験した。友人のFacebookアカウントが乗っ取られ、本人を装ったメールが私に届いたのである。一見すると丁寧で、親しげな文面。しかし、読んでいるうちにどうにも引っかかる部分があった。日本語としては成立しているのだが、微妙な誤訳があり、言葉の選び方や間合いが明らかにその友人らしくない。結果的に、詐欺だと確信した。

 興味深いことに、ここに生成AI時代の逆説がある。AIは文章を「正しく」整えるが、人間関係に特有の曖昧さや省略、温度感までを完全には再現できない。むしろ、丁寧すぎる言葉遣い、説明過多な表現、感情の盛り込み方が均質化し、かえって違和感が浮き彫りになることがある。これは医療の現場にも似ている。検査データ上は説明できても、患者として何かおかしい――その感覚は、数値ではなく経験から生まれる。

 今回の詐欺メールでも、決定打となったのは知識ではなく、「この人はこんな書き方をしない」という直感だった。生成AIは確かに詐欺を進化させた。しかし同時に、詐欺をテンプレート化し、雑音も増やしている。注意深く読めば見抜ける余地は、まだ残されているのだ。AI時代に最後まで頼りになるのは、高度な技術ではなく、人間が長年培ってきた違和感を察知する力なのかもしれない。

コロナ禍で出会った英雄譚――『ポロス(Porus)~古代インド英雄伝~』

 コロナ禍という世界が一斉に立ち止まった時間があった。人と人との距離が物理的にも心理的にも引き離され、日常が非日常へと反転したあの時代。

 コロナウイルスという社会分断ウイルスに悩まされた。

 医療現場に身を置く者として、私は「不確実性」と正面から向き合う日々を過ごしていた。正解のない判断、限られた情報、そして人の生と死。

 過酷さは極まりなかった。医師会に投稿する原稿を半年先まで書き置き(事前投稿し)、死を覚悟しつつ、コロナ最前線に立ち向かった。なぜか、うまくいくような気もしていたが・・・。根拠はなかった。神頼みだった。

 その合間に、私は一つの歴史ドラマを繰り返し観ていた。インド発の大河ドラマ『ポロス(Porus)~古代インド英雄伝~』である。

 今、ふと思い出す。ああ、懐かしい。あの日々。そして、はっきりと言える。悔いはない。全く悔いはない。

 本作は、古代インド西北部に実在した王・ポロス(プール)とマケドニア王アレクサンダー大王の対峙を軸に描かれる全299話の長編叙事詩である。単なる戦争ドラマではない。「侵略とは何か」「支配とは何か」、そして「人はどこまで合理的で、どこから非合理なのか」を問い続ける物語だ。

 物語前半では、若きポロスの出生と成長が丁寧に描かれる。母の知恵、師の教え、民への共感。王とは、生まれつき完成された存在ではなく、経験と葛藤の中で形成されていく存在であることを示していた。

 その描写は、医師の育成過程ともどこか重なる。白衣を着た瞬間に医師になるわけではなく、失敗や迷いを経てようやく「責任を引き受ける存在」になっていくのだ。

 一方、アレクサンダーの姿は対照的である。天才的な軍事的合理性、圧倒的な決断力。しかし同時に、征服をやめられない強迫性にも似た衝動を抱えている。

 医師の目からすると、彼は常に「成功体験に縛られた存在」にも映る。勝てば勝つほど、引き返す選択肢を失っていく――それは現代医療における過剰介入の構造ともどこか似ている。

 やがて、ヒュダスペス川を挟んで両者は対峙する。象兵を擁するインド軍と戦術で洗練されたマケドニア軍。

 勝敗以上に胸を打つのは、戦後の場面である。敗北しながらも尊厳を失わないポロスと、勝利しながらも相手の王としての器を認めざるを得ないアレクサンダー。ここには、「勝ったか負けたか」では測れない人間の価値が描かれている。(https://www.youtube.com/watch?v=Z_BcfUdlGxI&list=PLnSGWGB1aj5l_3iiJBQb_xoVRWBv7hgcC

 コロナ禍にこの作品を観た意味は、今になって腑に落ちる。医学は万能ではない。治せない病も止められない流行もある。その現実を突きつけられた時代に、私はこのドラマから「限界を知ったうえで、なお尊厳を保つ姿」を学んでいたのかもしれない。アレクサンダーの東方遠征は、人類の進歩の象徴であると同時に暴走の物語でもある。ポロスは、敗北の中でさえ、人としての尊厳を守り抜いた王として描かれる。

 あの日々、私はこの長大な物語を淡々と観続けた。焦りもなく、後悔もなく。世界が止まった時間の中で、古代の王たちは今を生きる私たちに静かに問いかけていた。

 今、改めて思う。あの時間は決して無駄ではなかった。悔いはない。全く悔いはない。静かな時代に観た、激動の英雄譚。

 『ポロス』は、私にとって医師としての原点を見つめ直す時間でもあった。

2026/02/14
これが私の生きる理由。

そして、私の生きがいってもの。

他に何も要らない。

感謝して感謝して感謝して感謝して、感謝して参ります。

意外な夢をみた。

 場所は病室。主治医は上司(TD先生)。病気はリウマチ。CRP0.02。中年男性の患者。上司は専門外であることを主張している。自分は専門家で、患者に経過良好と説明している。

ChatGPTの夢判断:

 とても示唆的で、しかも医師としての自己像がはっきり表れた夢ですね。夢判断として、象徴を一つずつ丁寧にほどいてみます。

① 場所が「病室」である意味
 病室はしばしば

評価・審査・保護観察の場
弱さが可視化される場
を象徴します。これは「患者としての自分」というより、自分の専門性やこれまでの歩みが“検証される舞台”を表している可能性が高いです。

② 病気が「リウマチ」であること
 リウマチは象徴的にみると、

慢性疾患
一進一退
完治より「付き合い方」が重要
 これは 長年続いた職業人生・人間関係・評価の積み重ねの暗喩と考えられます。急性疾患ではなく「慢性」である点が重要です。

③ CRP 0.02 という異常なまでの正常値
 ここは非常に印象的です。

炎症はほぼゼロ
数値的には「問題なし」
客観データでは完全に安定
 これは「自分の内面は、実はもう落ち着いている」「少なくとも専門家の目から見れば、破綻していない」という強い自己評価の表れです。

 適応障害を経験された文脈を考えると、これは 回復の自己確認に近い。

④ 中年男性患者=自分自身
 夢の中の「中年男性患者」は、ほぼ間違いなく現在のあなた自身の分身です。

年齢
性別
慢性疾患
入院という区切り
 いずれも一致しています。

⑤ 上司が「主治医」だが専門外を主張する
 ここがこの夢の核心です。

上司=権威・過去の評価者
しかし「専門外」と言って距離を取る
 これは「かつて自分を評価した人間は、今の自分の専門性を語る資格を持たない」という無意識の整理です。夢の中で、上司は「判断を放棄」しています。

⑥ 自分が専門家として説明している意味
 最重要ポイントです。

あなたは患者に対して
冷静に
「経過良好」と説明している
 これは自己治癒・自己承認・自己主治医化 を意味します。他者(上司・組織)に治療や評価を委ねる段階は終わり、「自分の人生の主治医は自分である」という位置に立っています。

総合的な夢判断(要約)
 この夢は――「過去の権威からの解放」と「専門家としての自己回復宣言」です。

あなたはもう“診断される側”ではない
ましてや“専門外の医師”に振り回される存在でもない
慢性の痛みはあったが、炎症はもう沈静化している
 CRP 0.02 は、自己評価としてはかなり強い肯定です。少し皮肉を込めて言えば

夢の中の上司は、「診る立場」に立ってみたら、自分が専門外であることを悟った わけです。一方あなたは、静かに、淡々と、「もう大丈夫です」と説明している。これはとても成熟した夢です。この夢を見たタイミングを考えると、「次のフェーズに進んでいい」という無意識からの許可証 と受け取ってよいと思います。

「底辺からものを見る」という感覚

 まさしく小生のようなものだ。

 豊臣秀長(秀吉の弟)は百姓出身だったので、かつて郡山城下で藍染を産業化した。武功一辺倒ではなく、暮らし・生業・税・治安といった“地面の温度”を知っていた。だからこそ、産業を保護・育成した。城下町を「戦の拠点」ではなく、「生活の場」として設計できた。

 はじめて知ったことであるが、藍には、防虫・防臭・抗菌という実利があり、農民や兵の衣類として極めて合理的である。「文化的で高尚だから」ではなく、「生き延びるために役立つから」選ばれた色だろう。

 まさに底辺から見た合理性である。上から見る人は、旗印・制度・理念を語る。下から見る人は、「腐らないか」・「病気にならないか」・「今日を越えられるか」を考える。

 秀長が「名将」と呼ばれるのは、派手な戦功ではなく、「破綻しない」・「暴発しない」・「人が逃げない」という統治をしたからであろう。これは藍染と同じで地味だが長持ちする。派手さはないが、腐敗を防いで感染を抑える。社会と人を静かに守る。

 底辺から見る世界は、実はいちばん真実に近い。小生を慰めてくれる。

2026/02/13
ああ横浜。

アルバイトしていた病院付近。
大した仕事をしてなかったような気がするなあ。
医師歴10年頃。未熟未熟。

あれから20年後。今も変わらず。

アンラーニングという勇気 ― 学び直しの本当の意味

 近年、「アンラーニング(unlearning)」という言葉を耳にする機会が増えてきた。直訳すれば、確かに「学び直し」だが、実は単なる再学習という意味ではない。アンラーニングとは、有効でなくなった知識やスキル、価値観を意識的に手放すことを意味する。日本語では、「学習棄却」や「学びほぐし」とも呼ばれる。

 我々は、長時間かけて多くのことを学んできた。学校教育、専門教育、現場経験――それらは、まぎれもなく自分を支えてきた大切な財産だが、一方、その「成功体験」や「常識」が知らぬ間に足かせになっていることもある。かつては正解だった方法が、時代や環境の変化によってもはや最適解ではなくなっている。そんな場面は、医療、教育、ビジネスなど、あらゆる分野で起きている。

 アンラーニングの難しいところは、「間違いを捨てる」のではなく、「正しかったものを手放す」という作業だからである。我々は、自分が積み上げてきたものを否定されると防衛的になるし、「今までの努力は無駄だったのか」と感じてしまうのだ。しかし、アンラーニングは過去を否定する行為でなく、むしろ過去の学びに感謝したうえで、「今の自分には合わなくなった(そぐわなくなった)」という成熟した態度と言える。

 「学びほぐし」という表現は、とても示唆に富む。固く結ばれた知識や価値観の結び目を無理に引きちぎるのではなく、少しずつ緩めていく。そうすることで、新しい考えや方法が自然と入り込む余地が生まれる。

 アンラーニングとは、空白をつくる行為なのだ。変化の激しい現代において、すべてを覚え続けることは不可能である。むしろ、「何を学ぶか」以上に、「何を手放すか」が問われている。まさに、過去の自分に縛られず、柔軟に変わり続けること。それは不安を伴うが、同時に大きな自由でもある。

 アンラーニングは年齢や立場に関係なく、誰にとっても必要なプロセスである。「もう一度、学び直す」前に、「一度、手放してみる」という勇気こそが、次の成長への第一歩になるだろう。

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