医療法人社団 山中胃腸科病院【公式ホームページ】

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2022/06/01
2022/6/1 ブログ

1.はじめに

 今年も5ヶ月が過ぎました。暑さが増してきています。世間に平和が戻ってくることを夢見ています。コロナ禍、第7波はどうなるでしょうか?分かりませんけど・・・(~~)。XE株、B.A.4株、B.A.5株・・・。やはり、第8波に備えないといけませんね(><)。

2.パクス・ヤマナーカ(山中の平和)の希求
 
 歴史上、古代ローマ時代の平和(パクス・ロマーナ:帝政ローマ時代の約200年間)を彷彿させます。戦争がないことに越したことはありません。ウクライナ戦争は残念ですけど。
 さて、コロナ禍閑散期(パクス・ヤマナーカ)の昨秋、紅葉を観るために水沢のもみじ谷に行きました。短い時間でしたが、心が澄み渡りました。時には、自然の壮大さを拝観する機会を持つべきでしょう(^^)。

3.柿渋

 コロナ禍初期から奈良県立医大の情報を気にかけていました。必ずや自然界に予防薬があるはずだという期待的推測です。柿渋カテキンを含有したサプリメントを飲みながら、日々、発熱外来に挑んでいます(o o)v。コロナウイルスに罹りませんようにと願いながら・・・。

4.甲状腺疾患をみたらA型胃炎を考える

 かなり医学的ですが、少しお付き合いください。甲状腺に病気(バセドウ病や橋本病が有名)があると慢性胃炎になっていることがあります。しかし、この慢性胃炎はヘリコバクターピロリ菌による慢性萎縮性胃炎(B型胃炎ともいう)とは違い、A型胃炎(慢性逆萎縮性胃炎)といって区別されています。
 認知度が低く、若いわりにヘリコバクターピロリ菌による慢性萎縮性胃炎の成れの果て(胃がんABC健診でD判定)と解釈されていることがあります。ベテラン内視鏡医になってくると、ピンときて診断出来るようになりますv(**)v。

5.最後

 いよいよ夏本番。熱中症にならないように気をつけましょう。昨夏は、コロナ禍第5波に痛めつけられて不愉快でした。なんせ暑かったから・・・(Y Y;)。

6.付録
   
 5月5日のこどもの日。日直でお子様ランチが出ました。これもご褒美でしょうか。最高でした。V($$)V

2022/05/23
今はなき寝台夜行列車の旅《1》《名古屋から中津へ》

本来ならば気候も良く旅行シーズン真っ只中ですが、世間の情勢は甘くないようです。
小学生の頃、東京にいる従兄弟たちが夏休みになると母方の実家である伊賀に遊びに来ていました。当時新幹線もなく東京に帰るときは関西本線から東海道本線を走る「大和」という急行列車がありました。伊賀上野の駅を夜10時頃出発し翌朝7時前に東京駅に到着する列車で、伊賀上野の駅のある関西本線は蒸気機関車(D51)が引っ張っていました。その頃から夜通し走る列車に非常に興味を持っていました。
大学の卒業試験で及第出来ず卒業延期になった同級生が、発表があった翌日大阪駅から北海道への感傷旅行を見送ったのが夜行寝台「日本海」でした。長年抱いていた夢でもある寝台列車の旅が20年前の夏休みに実現しました。

機会があればと思い続けていましたが、平成14年の夏、夜行寝台特急「富士」が夢を叶えてくれました。東京駅を夕方出発し名古屋駅には午後9時過ぎに到着します。名古屋駅から大分県の中津駅まで乗車しました。東日本と西日本では電流の周波数が異なります。また、本州と九州では電圧だけでなく直流・交流の違いもあります。関門トンネルを通過する時は、本州側の下関駅でトンネル用の機関車に変え、九州側の門司駅では九州用の機関車に替えるという作業をしていました。

その時の旅の目的は、夜行寝台に乗ること以外にもう一つありました。子供の頃読んだ菊池寛著の「恩讐の彼方に」の主人公である禅海和尚が開削した青の洞門を見たかったからでした。早朝中津駅に着きました。

コツコツと独りで掘り始めました。住民たちの手助けもありましたが、21年の歳月を経て開通しました。その後も幾たびかの改修、拡張工事と手を加えられ自動車が通行できるようになりましたが、明かり取りの窓に完成当初のノミ跡が残っています。

この小説は、書体も古く難解な漢字が多く、短編の割に最後まで読むのに多少時間が必要ですが、読んだ後に残る胸の中の熱い思いは忘れる事ができないと思います。時間を見つけてぜひご一読いただければと思います。こうして現在まで洞門を始め耶馬溪の景色が残っているのは、中津出身の明治維新の教育者福沢諭吉がこの景観保護のために尽力を尽くしたとのことです。
https://www.aozora.gr.jp/cards/000083/files/496_19866.html

2022/05/15
2022/5/15 ブログ

1.はじめに

 地元に帰ってきて、医療を展開して15年以上が経過しました。実父を看取ってちょうど2年が過ぎました。不甲斐ない息子を優しく見守ってくれた亡き父にあらためて感謝の意を奉げたいと思います。
 さて、今は昔。医学部に入学して間もなく、小生が実家に帰省した際、最寄の駅(近鉄鈴鹿市駅)でかつて学習塾で同じクラスだった女性に偶然出くわしてしまいました。進学先を知っているのか・・・、一言「昔、馬鹿だったのにねー」と苦笑されました。小生の若かりし頃の無能な事実を赤裸々に表現されてしまいました。隠す必要性もなく・・・、その通りなんです。
 家族をはじめ、いろいろな方々にお世話になりました。迷惑もかけましたし、救ってももらいました。医師として働くチャンスを頂いたわけですから、猪突猛進するしかありません。しかし、高望みは禁物です。

2.白い巨塔

 時は流れて・・・、医師になってしばらくしてから、教授に成りたいと思った時期がありました。「白い巨塔」という映画をご存知かもしれませんが、教授選では壮絶な争いが繰り広げられています。残念ながら、その渦中に遭遇したことがありませんので、聞いた噂から想像するしかありません。実際はどうなんでしょうか?全然、分かりません。
 その後、就任された教授と比較して小生の資質が明らかに相応しくなく、当然に無理と悟りました。言い訳でなく、負け犬の遠吠えと表現するのが正しいでしょう。ここで、その理由を挙げてみました。
①人脈作りが不得意。(情報収集能力に乏しい。)
②一つのことに集中もできないし、こだわることもできない。(学者的でない。)
③留学できる勇気もなく、経済力もない。(小生の能力に自信が持てない。)
④語学力に乏しく、英文論文が自力で書けない。(実際に書いてはみたものの・・・、悪文の数々で雑誌に投稿しても門前払いされ、査読者から嫌味の一言まで告げられた。)
⑤後輩の面倒をみることが億劫。(小生みたいな先輩が指導することで後輩の将来を台無しにしてしまう不安が大きい。)
 少なくとも①~⑤の理由で落第点は確実。挙句の果てに、大学院時代の指導教授に「君はあまり賢くないね」とダメ出しされました。つまり、学者になれないと引導を渡されました。これでは、努力しても才能が伴っていなかったと反省して、高望みしたことを恥じました。
 それからというもの、医療現場で地道にやっていくことに生き甲斐を感じています。時々、講師を依頼されたことがありますが、講演している間、(学者の真似事に)つかの間の幸福感に浸っていました。

3.まとめ

 医者の不養生と言われないように、健康に留意しながら地域医療に尽力していきたいと強く思います。

2022/05/01
2022/5/1

1.はじめに

 今年も4ヶ月が過ぎました。コロナ禍も長引いています。うんざりかもしれませんが、ひたすら耐えるしかありませんね(> <)。

2.コロナ禍 ~第6波襲来~

人工知能(AI)予想をはるかに超えて(オミクロン株が想定されていなかった?)、コロナ禍に再突入してやがて4ヶ月。第5波よりはるかに長引いているのは確かです(T T)。

3.医者が殺される時代に

 年末年始の悲劇が頭をよぎります。現在までおそらくあったかもしれませんが、明るみになることはなかったように思います。

 大阪:普段からトラブっていたとその実父が証言しています。性善説を採用する医師にとって回避不可能であったのでしょう。ガソリンという強い味方(凶器)に医療サイドは無力です。

 埼玉:親の年金を頼りに生きていた可能性はあるでしょう。延命要求は間違いでありません。一方的な要求は、いい結果をもたらしません。しかし、銃という強い味方(武力)に医療サイドは無力です。

 医療現場は多難です。医療政策の現状を改善するため、ときどき厳しい意見を頂きます。例えば、「君が新薬を発見すればいい。」や「君が総理大臣になって改革すればいい。」という意見です。全くその通りです。残念ながら、一人の能力には限界があります。医療改革を全国民で進めていきたいものです。

4.ウイズ人間(With Human)

 コロナの立場からすれば、ウイズ人間です。人間の立場からすれば、ウイズコロナです。コロナも人間との共生を望んでいるのでしょうか?天然痘ウイルスに似ているウイルスでない限り、撲滅はきっと難しいでしょう。やはり、仲良くしていくしかないでしょう。当分の間はそれが無難でしょう(pq)。

5.最後に

 小生の病院生活(ある意味、単身赴任生活)もやがて2年近くになります。土筆(つくし)の炊き込みご飯など、時々自炊して病院と共生しています。これも小生の生きざまです~~~孤軍奮闘~~~~~。v(^^)v

2022/04/25
2022/4/25

お元気ですか?
めっきり春らしくなり、樹々の花も競演しています。桜に続きツツジ、サツキと目を楽しませてくれます。生前母がサツキの花が満開になると“則次の誕生日”とよく言っていました。五月が来ると数え年で古希となり、いつの間にか父親の歳を超えました。医師の働き方改革というわけではありませんが、これからは時間を有意義に過ごそうと思います。
あちこちと車で出かけるのが好きで、今までから休日に時間が空けば、フラーッと出かけていました。その時に備え常日頃から下調べしていました。
その延長線上にあったのが“アップルの遠足”です。年2回行いました。
単に見るだけ、遊ぶだけではなく、歩き運動をするということを意識しないで、体を動かすという趣旨の旅行でした。道中のバスの中で健康や病気について、訪問先の地理や歴史についても学びました。2〜3ヶ月前から職員が仕事の合間の時間に集まり計画を練り下調べの予行演習もしました。当日参加された患者様と楽しい時間を共有するための色々な工夫を凝らしました。

荷坂峠H19.4.13

東日本の震災を契機に、私の体力の低下もあって以降は残念ながら行っていません。

2022/04/15
コロナ禍中、新年度が始まりました。

コロナ禍中、新年度が始まりました。「病院が平和でありますように」と祈る毎日です。

走ってコロナ検査を展開しています。駐車場を右往左往する検査係の小生です。体重60kg前後とスリムになりました。

コロナ抗原定量検査の待ち時間は40分と長いです。この検査法はPCRと違いますが、本当に役に立ちます。感謝しています。小生は、このゼッケンをつけて走っています。

それでも自然に変化はありません。桜が満開です。コロナなんぞ、関係ない様子です。

皆様、くれぐれもご自愛くださいませ。(^^)vv

2022/04/04

コロナ禍にウクライナ戦争。世の中気の重くなることばかり。こんな時こそ、笑いが大切。私と山中胃腸科病院が参加している日本笑い学会を一度覗いてくださいな。
そしてリンクを見てください。

“戦うくらいなら むしろ、幸せに 笑え”
(戦 ウクライナ 等 無視 ロシア は 背に 笑え)

日本笑い学会 http://www.nwgk.jp/

2022/04/03
【ブログ第1回 令和4年4月3日 ー皆様に感謝ー】

初めまして
元消化器外科医です。
現在は、内科及び外科です。
午前中は新患と再診患者さん(予約制)の診療で、午後は入院患者さんの診療と発熱外来(新患、コロナ感染疑いの患者さんのトリアージ)をしています。
 新型コロナウイルス感染症(COVID-19)に関わるすべての医療、看護、介護スタッフ及び保健所関係の皆様方の努力に、心から感謝と敬意を表すると共に、エールを送ります。
毎日、本当にありがとうございます。そして、ご苦労様です。

田矢功司

      

2022/04/01
はじめに

令和4年4月1日、人生初めてのブログを開始することになりました。
山中胃腸科病院の齋藤孝仁でございます。

自己紹介

昭和44年8月24日生まれ
三重県鈴鹿市出身

著書:「勤務医にこだわる ~私の進化型総合
    診療構想~」(幻冬舎ルネッサンス新社)

趣味:終活活動
    第一幕は達成(~令和4年3月)
    第二幕は進行中(令和4年3月~)

今回は最初ですので、どうして医師を目指したのかという経緯を紹介しておきます。

医師を目指した原点 ~随筆 彼女のおまけ~

 平成28年7月、眼の病気をきっかけに終活の旅を始めた。一度きりの人生。できるときにやっておかないときっと後悔するから。
 令和元年10月14日、36年ぶりに愛知県犬山市にある野外民族博物館リトルワールドをめざした。前向きな気持ちを奮い立たせ、終活を成功させるという誓いを確固たるものにするために、どうしても一人で行きたかったのだ。小生の人生を変えたあの出来事を思い起こしながら…。
 時は、昭和58年4月にタイムスリップ。中学二年生に進級して、斜め右前の席にキュートな女子がいた。一目惚れ。疑いもなく初恋。この瞬間から小生の甘酸っぱい青春時代が始まった。彼女は少し気の強い性格という印象で数学が得意だった。
 同年5月、一学期の中間試験の数学で百点満点をとった彼女。どのような男子がタイプか聞いてみた。「頭が良くてピアノが弾ける人」という回答。少年の単純な心から、彼女に相手にされるためには「勉強で上回って、ピアノ伴奏できればいい」と安易に考えた。
 そんななか、社会見学でリトルワールドに行った。彼女の写真をとりたくてわざわざカメラを買って持参した。ところが、担任の先生に見つかって取り上げられてしまった。落ち込みながらも野外民族博物館を見学して回った。帰りのバスのなかで同級生が「あの素晴しい愛をもう一度」を独唱しているのをただただ悲しく聞いていた。この瞬間、惨めな小生に天が囁いた。そのまま素直に従った。短期計画として、ピアノを習った経験のない小生が「あの素晴しい愛をもう一度」のピアノ伴奏をすることを。そして、試験で彼女を超えることを。長期計画として、永遠に努力し、医者になるという夢を実現することを。
 それから、この二つの短期および長期目標を掲げた試練の日々が続いた。小学校時代の恩師に事情を話してはみたものの、「習っていない人には無理だよ」とあっさり宣告された。それでも自宅にある妹のピアノを借りて、楽譜にドミソなどと書いて右手だけで練習を始めた。ちょうどその頃、音楽の授業で「あの素晴しい愛をもう一度」が文化祭の合唱コンクールのテーマ曲と発表された。音楽の先生が両手伴奏し、ダイナミックだった。一方、小生の片手伴奏は貧弱そのものだった。違いは明白だった。それでもひたすら独学で練習に励んだ。
 同年八月、夏休みのある日。旅行先で彼女が転校する夢を見た。きっと正夢に違いない。一緒に過ごせる時間は限られたものと予感した。「何が何でも完成させなければならない」と奮起した。すべての時間をかけて勉強もピアノも自己研鑽していった。
 同年九月一日。彼女に変わった様相はなかった。本当に転校するのだろうか…。この時点では分からなかった。同級生に彼女が転校する夢を見たことを告白した。その晩、それまで流暢なメロディーに至らなかった伴奏に、まるで嘘のようにリズムが生まれた。エネルギーを急速に注入されたような不思議な感覚だった。そして、不完全ながらも伴奏できるようになったのだった。独学でマスターしたことになっても全く満足感はなかった。それからも当たり前のようにひたすら練習を続けた。
 同年十月。初心者ゆえの反対意見もあったが辛うじて伴奏者に決まった。先生に弱点や難点を部分的にアドバイスしてもらい、少しずつ洗練していった。弾き語りできるほどに何回も何回も繰り返し練習した。授業中、予行で伴奏する小生をときどきチラ見する彼女の視線を感じながら、その幸福感に浸っていた。決して油断を見せることはなかった。
 同年十一月下旬。運命の日。文化祭。合唱コンクールで「あの素晴しい愛をもう一度」のピアノ伴奏を辛うじて切り抜けた。短期目標の一つ目が達成できた。
 翌年(昭和五十九年)一月。年が明けて三学期。彼女は相変わらずキュートで少し大人っぽくなっていた。夢情報を信じて、限られた時間を精一杯生きた。
 同年二月。それまで中間および期末試験の勝敗は不明だった。最後のチャンス。高得点を求めて全力で勉強した。期末試験の六教科(主要五教科+音楽の計六百点満点)で合計五百七十九点だった。
 同年三月。三学期も残すところあとわずか。終業式の一週間前、同級生みんなで進級前のお別れの会が開かれた。実際は彼女の送別会だったそうで、小生には知らされていなかった。彼女の寂しそうな様子が印象的だった。運命の日と知らないままに…。その会の終了後、担任の先生より彼女の転校が告げられた。その瞬間、心臓が飛び出しそうになった。正夢だったのだ。高鳴る鼓動はなかなか止まらなかった。悲壮感を隠せなかった。
 その数日後、担任の先生に呼び出された。三学期の期末試験の結果をこっそり教えてくれた。学年単独一位の成績だった。彼女を超えた。そして、「チャンスは簡単にめぐってこない」という摂理を体感した。一度しかないチャンスはものにしなければならないと悟った。結局、短期目標の二つ目も達成し、「彼女に勉強で上回って、ピアノ伴奏すること」という短期目標は完結したのだった。
 終業式の朝、教室に入ると彼女は遠くから小生を見つめた。短時間だったが…。小生は、「いつかきっと会えるよね」と心で叫び、黙ってお別れをした。告白は考えていなかった。長期目標を達成したら、「必ず会ってくれるよね」というかすかな望みを心に抱いていたので…。
 時は流れて、昭和六十三年四月。高校卒業後、医学部入学に失敗し、惨めな浪人生活が始まった。疲労が蓄積し、心が折れつつ、だんだん焦りが出てきた。苦し紛れに藁をもすがる思いで喘いでいたとき、ふと原点を思い出した。「あの感覚だ。あの心構えだ。彼女に会えば、この状況をきっと打開できるはずだ」と確信した。
 幸運にも予備校の友人に彼女の高校時代の同級生がいた。夏の暑い日に会ってもらえる機会を得た。約束の日、桑名の喫茶店でアルバイトしている大学生の彼女に約五年半ぶりに会った。その時間は極めて貴重だった。彼女の励ましを受けた小生は、不思議にも心身ともに甦ったのだった。この時の素直な偽りのない気持ちを表現するなら、「傷つけることを何も言わず、語らず、迷惑がらず、小生に快く会ってくれた彼女に心から感謝する」だ。
 大学受験が近づいたある日、彼女の写真が友人を経由してプレゼントされた。中学二年生の時に手に入れることができなかった彼女の写真。時は流れていたが、あの苦い思い出がすべて報われた。最終的に人生最大の勝負に恐れることなく、受験に挑むことができた。
 平成二年三月末、苦節を乗り越え、合格したことを彼女に伝えに行った。それが最後の会話だった。長期目標(まだ、医者になっていないが…)も達成することができた。本当は合格してから再会するのが理想的だったが、それだけは守れなかった。彼女は小生におまけを付けてくれたのだった。
 大学に入ってからもこの気持ちを常に忘れず、あの時に誓った「永遠に努力すること」を胸に小生自身を信じて歩み始めた。
 ここで、タイムスリップを解除。二時間程度の限られた短い短い時間だった。小生を医者に導いてくれた片思いの彼女を思い出しながら…。そして、リトルワールドを後にした。
 これからも終活の旅は続く。感謝の気持ちをいつまでも純粋に持ち続けている。だから、努力もできる。更なる崇高な目標を達成できたら、もう一度、小生の心の故郷リトルワールドを訪れようと思う。

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