医療法人社団 山中胃腸科病院【公式ホームページ】

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2022/08/15
2022/8/15 ブログ

1.はじめに

 昔話に感動することはしばしばあります。まんが日本昔ばなし。遠い昔の物語。たまには、すっきりと心を和ませたいものです。今は亡き市原悦子さん朗読およびナレーションでした。コロナなんぞ、予想だにしていなかった幼少期のことです。確か土曜夜7時からよくみていました。遠い昔の思い出です。
 今回、非現実的ではありますが、奇異的で感動したシーンを紹介します。

2.昔話(まんが日本昔ばなしより)

①「大蛇の塔」
 正直者でまじめな大工が代官の一人娘と恋に落ちました。身分の違いは明らかで、代官は許さず、叶わぬ恋でした。娘は自殺し、大工は失望しました。代官は深い悲しみに苛まれ、大工に恨みを抱きます。大工は囚われ、「一晩で釘一本使わずに五重塔を建てたら、命だけは助けてやる」という酷い難題を代官は押しつけました。困り果てた大工の目の前に、突然、大蛇が現れました。「楔一つ作って待て」と。大蛇は五重塔に化け、大工は塔の天辺に楔を打ちました。五重塔は黄金色に光り輝きました。完成した黄金の塔を見た代官は恐ろしくなり、大工を斬り捨てました。化けた大蛇は元通りになり、大工の屍を銜えて空に上っていきました。そして、嵐がやってきて洪水を引き起こし、代官屋敷までも水に沈みました。命を絶った二人の供養のため、神社が建てられました。
 当時、身分の違いは恋愛結婚を妨げていたのでしょう。一流の大工でも代官の娘を嫁にできなかったわけですから、なす術なしです。小生も親の身分を罵られて、恋敗れたことがありました。こればかりはどうしようもありません。受け入れる以外に術はありません。「人事の日本史」を読むと身分をよく理解できました。

(小生、アマゾンで購入)

②「大工と鬼六」
嵐のたびに橋が流されるという村。大工の棟梁が橋を再建すると豪語しますが、どうしようもできず、途方に暮れていました。後悔の念を感じつつも、とにかく現場に赴きました。そこに鬼が現れました。人間には無理だろうと諭しました。鬼は2日間で橋を完成させていました。そこで、鬼は棟梁の目玉を奪おうとしますが、「おいらの名前を当てたら赦してやる。明日まで。」と約束しました。棟梁は食が進みませんでした。そこに、妻の子守唄が聞こえてきました・・・「鬼六が目玉もってやってくる」と。翌日、棟梁はもったいぶりながら、「鬼六」と告げました。鬼六はそのまま水面下に姿を消しました。
 恩着せがましくなかった鬼六。潔かった鬼六。厚意は誇らないのが吉でしょう。しかし、・・・無知とは恐ろしいですが、妻の子守歌という幸運を棟梁は嚙み締めたはずです。偶然の吉報と橋のプレゼント・・・鬼に金棒でなく、まさしく一挙両得です。
能ある者は、腕を評価されたいという純粋な心を持ち合わせているのかもしれません。厚意に対して見返りを求めないことこそが真の美徳なのかもしれません。

3.まとめ

 現実的ではありませんが、このような夢物語があっても悪くないように思います。医者として生きていくうえでも重要であります。無謀ではありません。「賢人は歴史から学び、凡人は経験から学ぶ」と言いますが、発想の転換の重要性を学習できた思い出です。
 こんな些細なことに感動する小生は、デリケートかつロマンチストなのでしょうか?

2022/08/08
この暑い時にこそ涼しい話を⁈

令和4年文月

 「雪は天から送られた手紙である。」
 この言葉を残したのは、中谷宇吉郎です。加賀市片山津出身の科学者で、世界で初めて人工的に雪の結晶を作り出した人です。東京大学を卒業後理化学研究所に入りイギリス留学後北海道大学理学部教授として北海道に渡り、雪の研究を始めます。冬の大雪山にこもり研究を始めました。人工雪に終わらずその後は、広く海外にまで足を伸ばしグリーンランドでは氷について研究を始めます。また、科学だけにとどまらずあらゆる分野にわたる随筆を数多く残しています。
 理化学研究所時代、寺田寅彦に師事しています。寺田寅彦も多くの随筆を残しています。寺田寅彦の熊本第五高等学校時代の英語教師が夏目漱石であり、漱石が主宰していた俳句会に参加していたことから、当時科学以外にも大きな影響を受けたと推察されます。中谷博士や寺田博士は海外留学の経験がありますが、二人とも伴侶を病気で失っているというおかしな共通点もあります。

片山津市「雪の科学館」

 宇吉郎は雪の研究のため北海道に行ったのでなく、北海道という寒冷の環境の中で研究の対象が雪であったというだけのようです。「誰も生まれない前から雪は降っていた」という言葉が表すように、北海道の自然の中に自分の一生を決定する研究対象を見出したのです。

旭川「雪の美術館」(現在閉館中)のクリスタルの一部

 住めば都という言葉が示すように、自分の生活場所に慣れてくれば、またその中に楽しみや意義を見出せば、その地での毎日は決して捨てたものではなく、光り輝いてくることになります。自らの境遇を嘆く暇があれば、新たな喜びや意義をそこで見出すように心がけるようにすることが大切だと思います。

雪の科学館中庭

 北陸自動車道片山津インターから温泉街に向う途中に中谷宇吉郎 雪の科学館があり、中庭は中谷博士が研究に赴いたグリーンランドの地をイメージで作られ、霧アーチストである娘(中谷芙二子)さんの手も入っています。

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2022/08/01
2022/8/1 ブログ

 まず、コロナ禍第7波が到来しました。BA.5は強敵で手強いように感じています。1年前の悪夢が再現されてしまいました。

 さらに、銃刀法の取り締まり強化を考える必要性が出てきました。安部元首相の暗殺事件は悲劇そのものでした。また、国内でも海外でも医者が殺される時代になりました。コロナ禍で犯罪が増えることだけは、避けて欲しいものです。

 さて、昨年、終末期ケア専門士となり、終末期医療に対して様々なことを考えるに至りました。個人的に、暗さが漂う「終末期医療」と表現するよりもむしろ「終活医療」としたほうが前向きに生きられるような気がしています。終活という言葉は、いつの間にか小生が好んで使用するようになりました。一度しかない人生ですから、どんな運命であろうとも前向きに生きるしかないのです。

 この話の流れから、例えば、がん(縦隔腫瘍である精巣上皮腫)を克服した医師フィッツ・フュー・モラー氏や肺がんステージ4を告白した緩和ケア医師関本剛氏(令和4年4月永眠)の勇気ある闘病記の発刊に対して敬意を表します。また、大学後輩の精神腫瘍医である清水研医師が活躍しているのをみて(発刊多数)、小生も活性化されました。
 がん患者も多数。そして、彼らに寄り添う家族や関係者も多数。長生きがすべてでないという考え方など、小生の辞書にないことを多く学びました。

 かつての小生の経験を紹介します。60歳代の女性です。当時、悪性リンパ腫と診断され、化学療法(CHOP療法という抗癌剤治療)中でした。医師1年目の研修医(血液内科)の小生の写真を撮ってくれました。金沢大学医学部附属病院の病棟にて。1997年2月頃のことです。

 最近、がんサバイバー大学生手記の『「がんになって良かった」と言いたい』(山口雄也著)を読みました。ただただ感激して涙しました。また、消化管間質腫瘍(GIST)患者である大橋洋平先生の著書「緩和ケア医ががんになって」も読みました。ここから、”足し算命”という時間の価値感を学びました。そのなかで緩和ケア病棟は生きるところであり、死ぬところでないと強調しています。

 もはやがんとは隣り合わせです。小生は、果たして死を悟ることができるのでしょうか?終活医療に貢献できるのでしょうか?神のみぞ知る?

2022/07/15
2022/7/15ブログ

1.はじめに
 アニメに感動することはしばしばあります。例えば、アニメ「アルプスの少女ハイジ」の最終回は、ご存知の通り、クララの歩行にてハッピーエンドを迎えました。めでたしめでたしですね。
 今回、非現実的ではありますが、奇異的で感動したアニメシーンを紹介します。

①アニメ「侍ジャイアンツ」のミラクルボール
 主人公(番場蛮)がストイックな投球方法を開発して球界に旋風を巻き起こします。ハイジャンプ魔球、エビ投げハイジャンプ魔球、大回転魔球および分身魔球の4種類です。各魔球は、いずれもライバルに打ち砕かれました。
 最終回。日米野球で大リーグの最強打者ジャックスと対戦します。4球種のすべての魔球が単独で通用しませんでした。しかし、もうこれ以上投げる球種がなくなって、マウンド上で悩んだ挙句・・・、今こそ投げるべき球種があることに気づいたのでした。そう、魔球を組み合わせればいいことを思いついたのでした。見事、ミラクルボールがキャッチャー八幡の胸に吸い込まれました。ゲームセット。
 追い込まれたときに、どのように切り抜けるかという発想の転換を思い知らされました。組み合わせるということを。

②アニメ「宇宙戦艦ヤマト」の波動砲
 アルファ星の手前の攻防でデスラー総統率いるガミラスに追い詰められました。アルファ星のコロナ(火の海)に突入せざるを得なくなりました。ところが、目前に避けきれない大型コロナが立ちはだかりました。絶体絶命の大ピンチです。速度が速く避けきれない状況ですが、さりとて速度を落とせばアルファ星の引力圏内に引き込まれます。そこで、沖田艦長は「波動砲で火を撃つ」という戦略に出ました。小宇宙を破壊できるほどの威力を持つ波動砲。ならば、コロナをしのげるはずという信念。見事、波動砲はコロナを打ち破り、ヤマトはその危機を辛うじて切り抜けました。まさしく、「火で火を撃つ」という発想の転換でありました。
 追い込まれたときに、どのように切り抜けるかという発想の転換を思い知らされました。「毒をもって毒を制す」という戦略もあることを。

③アニメ「エースをねらえ」の鬼コーチの贔屓
主人公(岡ひろみ)がテニス部に入部して間もなく、スパルタ宗方コーチに見初められました。岡の葛藤をコーチの愛情が包み込みました。最終回、実母の面影に重ねて岡を寵愛していたという事実が判明します。案外シンプルな人間の発想でありながら、鬼コーチに親近感を感じてしまいます。天才スタープレイヤーお蝶夫人と岡の死闘は、感動させられました。岡の飾らない真剣な眼差しとラケットと手をテープで巻きつけるという執念に勇気をもらいました。純粋な心が宿った岡の成長と無欲さこそが勝利につながるという摂理を体感しました。
追い込まれたときに、どのように切り抜けるかという発想の転換を思い知らされました。無欲を意識しつつ、勝ちたいという確固たる信念を持つことを。

④アニメ「北斗の拳」の奥義水影心
 「一度戦った相手の拳を己の分身とできる。」という達人技です。史上最強の拳法である証です。幾度となく、主人公のケンシロウはこの奥義を使いました。鮮やかでした。例えば、南斗白鷺拳シュウと一戦を交えたとき、同じ流派の南斗紅鶴拳の奥義を使いました。
追い込まれたときに、どのように切り抜けるかという発想の転換を思い知らされました。相手の弱点を攻めるということを。
 ちなみに、相手の技を盗む行為は、医療においても極めて重要です。常に手取り足取りで教えては頂けません。見て聞いて覚えるのです。一見野蛮ですが、時には重要です。

3.まとめ
 現実的ではありませんが、このような夢物語があって悪くないように思います。医者として生きていくうえでも重要であります。無謀ではありません。「賢人は歴史から学び、凡人は経験から学ぶ」と言いますが、発想の転換の重要性を学習できた思い出です。
 こんな些細なことに感動する小生は、デリケートかつロマンチストなのでしょうか?

2022/07/01
2022/7/1ブログ

1.はじめに

 今年も6ヶ月が過ぎました。暑さがさらに増してきています(~~)。桜の時期はコロナ禍中でありましたので、花見を楽しんでいる場合ではありませんでした。(T;T)

2.かつての学会発表

 今から8年前の話です。地域医療を進める中、独自で収集したデータをもとに第111回日本内科学会総会で発表しました。懐かしいです。
 最近の学会事情によると、コロナ対策で学会場に行かなくてもリモート(WEB開催)で学会に出席できます。移動時間が不要であり、現地よりも多くのセッションを聴講できます。地方勤務であれば遠方出張は厳しいので、なおさらありがたいです。(^^)

3. まとめ

 コロナ地獄ながらコロナ福を感じることも時々あります。学会活動がそうです。「ピンチをチャンスに変える」という発想の転換が必要かもしれませんね。(^^)
 今は、コロナ禍という長い長いトンネルに入っています。いつしか、長いトンネルを貫けるとそこは雪国(平穏な生活)であったと夢見ています。

2022/06/25
桃太郎の故郷〜吉備路〜での発見

令和4年水無月

雉・猿・犬の話で有名である桃太郎は鬼ヶ城で鬼を打ち破り、金銀財宝を故郷に持って帰り、その後はどうなったのか。それには諸説あります。文豪と言われる人が書き表したものをご参考まで。(下記参照)
子供の頃、祖父の発案で私の家族と大阪に住む父親の妹の家族とで岡山を訪れたことがありました。当時は高速道路もなく車で国道2号線を西へ西へと向かいました。岡山市の北西に高松稲荷にある最上稲荷を目指しました。同じ敷地に最上稲荷山妙教寺が並んで建てられています。妙教寺は当家菩提寺と同じ宗派で、曽祖父が醸造業を継承するに当たり願をかけた寺であるとのことでした。

最上稲荷

当時N H Kの大河ドラマで緒形拳が秀吉役の太閤記が放映され、高松城の水責め、本能寺の変や中国大返しは耳にしていました。参拝の道中に高松城の史跡を発見し、こんな所に堤を作り城を攻めたのかとおぼろげに記憶に残っていました。高校の時、上野盆地の四方の山に降った雨は木津川となって岩倉峡を経て島ヶ原・大河原・加茂を通り北上し京都山崎で桂川・宇治川と合流し淀川と名前を変えて大阪湾に注ぐ、地理の授業で説明を受けました。出口の岩倉峡で木津川の水を堰き止めると上野盆地は湖になり中央の河岸段丘の上にある上野白鳳城は水に浮かび美しい眺めとなると冗談で話されました。そのイメージと備中高松状の水攻めが重なって長い間頭の中に残っていました。

備中高松城跡

最上稲荷と吉備津神社を目当てに平成13年春岡山に向かいました。当時はカーナビ等ない時代で、あちこちと道に迷いながら最上稲荷に向かいましたが、その途中で偶然「緒方洪庵」の字を目にしました。

緒方洪庵の像

大阪に適塾(適々斎塾)を開き、江戸時代末期から幕末、明治維新にかけて活躍した偉人たちを輩出しました。自身も子供の時に天然痘に罹患しましたが、蘭学特に医学を学んだのち、世界的に流行していた天然痘の感染予防のために種痘の接種を積極的に推進しました。種痘は昭和の時代まで続いていました。小学生の時に受けた種痘の痕がまだ私の左肩に残っています。新型コロナウイルスの世界的な流行の時にこの話を紹介する機会を探っていたところに、“サル痘”のニュースが飛び込んできました。1980年に天然痘の撲滅が宣言されましたが、日本国内では1978年に種痘を終了しています。種痘を受けた人はこの“サル痘”には感染予防効果があり、感染しても軽症で済むとのことです。平成以降に生まれた方は御用心を‥。
https://www.aozora.gr.jp/cards/000879/files/100_15253.html

2022/06/15
2022/6/15 ブログ

1.はじめに

 最近、大鐘稔彦先生の著書「私が”足の裏の飯粒”を取らなかった理由」(2021年11月発刊)を読みました。小生は、若いうちに医局を離れ、あちこちを転々とするなかで、「はぐれ外様医師」として一匹狼のごとく生きてきました。この本では「アウトサイダー医師」と表現されていますが、同じ意味を示しています。
 博士号なんて要らないとされていますが、博士号(医学博士)を取得した経験からすれば、ある意味であったほうがいいと思います。なぜなら、学会研究発表する際、「医学博士なんだから」と上司に妨害されることがありませんでした。あと強いていうならば、国立の機関で働く場合、手当がつきました(当時、月500円)。それだけのことです。はっきり言うと、医学博士は過去の栄光に過ぎません。
 しかし、臨床医家としての「アウトサイダー医師」では、たとえ博士号を取得していなくても何ら問題とはなりません。特に外科系では、腕さえあれば(実力さえあれば)大丈夫です。患者さんが評価するわけですから。

(小生、アマゾンで購入)

 さらに、現職医師の大鐘稔彦先生の著書に「孤高のメス」というベストセラーがあります。実は完全映画化されています。地域医療という現代医療が直面する大きな問題に一石を投じています。小生が肌で感じた過去の記憶に似たものが含まれています。共感できるところがたくさんありました。

2.孤高のメス~外科医当麻鉄彦~(全6巻)

(小生、アマゾンで購入)

 原本(著書)とドラマを比較することに興味のある小生は、先にドラマを見るのか、先に原本を読むのかは、その都度選択しており法則はありません。まあ、気まぐれなんです。(笑)
 今回はドラマ「孤高のメス」(堤真一主演)を解説しておきます。
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 ある地方の市民病院に外科医当麻鉄彦が赴任する。当麻は、腐敗した病院の中で次々と困難なオペを成功させていく。その信念に満ちた姿はやがて病院や人々の心を動かし、信頼を獲得していく。そんな中、肝硬変に倒れた市長が市民病院に搬送されてきた。助ける方法は唯一、脳死状態のA少年から肝臓移植を受けることだった。しかし、それは日本の法律ではいまだ認められていない禁断のオペだった。当麻は、信念のもと進退をかけてオペに臨む。クライマックスのオペは見事成功し、市長は一命をとりとめた。違法性の議論がなされたが、A少年の肉親の強い意志が容認され、書類送検は見送られた。
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3. まとめ

「孤高のメス」を是非、鑑賞してください。ちなみに、連続ドラマ版(滝沢秀明主演)もあります。

 かつて肝臓専門医だった小生は、肝臓移植に関与したことがありました。当時、原発性胆汁性肝硬変の43歳女性を生体肝移植に送り出しました。最後に交した言葉は、「先生、好きな人には好きと言ってね」でした。しかし、無事に帰って来ませんでした。この記憶はいつまでも消えません。

2022/06/01
2022/6/1 ブログ

1.はじめに

 今年も5ヶ月が過ぎました。暑さが増してきています。世間に平和が戻ってくることを夢見ています。コロナ禍、第7波はどうなるでしょうか?分かりませんけど・・・(~~)。XE株、B.A.4株、B.A.5株・・・。やはり、第8波に備えないといけませんね(><)。

2.パクス・ヤマナーカ(山中の平和)の希求
 
 歴史上、古代ローマ時代の平和(パクス・ロマーナ:帝政ローマ時代の約200年間)を彷彿させます。戦争がないことに越したことはありません。ウクライナ戦争は残念ですけど。
 さて、コロナ禍閑散期(パクス・ヤマナーカ)の昨秋、紅葉を観るために水沢のもみじ谷に行きました。短い時間でしたが、心が澄み渡りました。時には、自然の壮大さを拝観する機会を持つべきでしょう(^^)。

3.柿渋

 コロナ禍初期から奈良県立医大の情報を気にかけていました。必ずや自然界に予防薬があるはずだという期待的推測です。柿渋カテキンを含有したサプリメントを飲みながら、日々、発熱外来に挑んでいます(o o)v。コロナウイルスに罹りませんようにと願いながら・・・。

4.甲状腺疾患をみたらA型胃炎を考える

 かなり医学的ですが、少しお付き合いください。甲状腺に病気(バセドウ病や橋本病が有名)があると慢性胃炎になっていることがあります。しかし、この慢性胃炎はヘリコバクターピロリ菌による慢性萎縮性胃炎(B型胃炎ともいう)とは違い、A型胃炎(慢性逆萎縮性胃炎)といって区別されています。
 認知度が低く、若いわりにヘリコバクターピロリ菌による慢性萎縮性胃炎の成れの果て(胃がんABC健診でD判定)と解釈されていることがあります。ベテラン内視鏡医になってくると、ピンときて診断出来るようになりますv(**)v。

5.最後

 いよいよ夏本番。熱中症にならないように気をつけましょう。昨夏は、コロナ禍第5波に痛めつけられて不愉快でした。なんせ暑かったから・・・(Y Y;)。

6.付録
   
 5月5日のこどもの日。日直でお子様ランチが出ました。これもご褒美でしょうか。最高でした。V($$)V

2022/05/23
今はなき寝台夜行列車の旅《1》《名古屋から中津へ》

本来ならば気候も良く旅行シーズン真っ只中ですが、世間の情勢は甘くないようです。
小学生の頃、東京にいる従兄弟たちが夏休みになると母方の実家である伊賀に遊びに来ていました。当時新幹線もなく東京に帰るときは関西本線から東海道本線を走る「大和」という急行列車がありました。伊賀上野の駅を夜10時頃出発し翌朝7時前に東京駅に到着する列車で、伊賀上野の駅のある関西本線は蒸気機関車(D51)が引っ張っていました。その頃から夜通し走る列車に非常に興味を持っていました。
大学の卒業試験で及第出来ず卒業延期になった同級生が、発表があった翌日大阪駅から北海道への感傷旅行を見送ったのが夜行寝台「日本海」でした。長年抱いていた夢でもある寝台列車の旅が20年前の夏休みに実現しました。

機会があればと思い続けていましたが、平成14年の夏、夜行寝台特急「富士」が夢を叶えてくれました。東京駅を夕方出発し名古屋駅には午後9時過ぎに到着します。名古屋駅から大分県の中津駅まで乗車しました。東日本と西日本では電流の周波数が異なります。また、本州と九州では電圧だけでなく直流・交流の違いもあります。関門トンネルを通過する時は、本州側の下関駅でトンネル用の機関車に変え、九州側の門司駅では九州用の機関車に替えるという作業をしていました。

その時の旅の目的は、夜行寝台に乗ること以外にもう一つありました。子供の頃読んだ菊池寛著の「恩讐の彼方に」の主人公である禅海和尚が開削した青の洞門を見たかったからでした。早朝中津駅に着きました。

コツコツと独りで掘り始めました。住民たちの手助けもありましたが、21年の歳月を経て開通しました。その後も幾たびかの改修、拡張工事と手を加えられ自動車が通行できるようになりましたが、明かり取りの窓に完成当初のノミ跡が残っています。

この小説は、書体も古く難解な漢字が多く、短編の割に最後まで読むのに多少時間が必要ですが、読んだ後に残る胸の中の熱い思いは忘れる事ができないと思います。時間を見つけてぜひご一読いただければと思います。こうして現在まで洞門を始め耶馬溪の景色が残っているのは、中津出身の明治維新の教育者福沢諭吉がこの景観保護のために尽力を尽くしたとのことです。
https://www.aozora.gr.jp/cards/000083/files/496_19866.html

2022/05/15
2022/5/15 ブログ

1.はじめに

 地元に帰ってきて、医療を展開して15年以上が経過しました。実父を看取ってちょうど2年が過ぎました。不甲斐ない息子を優しく見守ってくれた亡き父にあらためて感謝の意を奉げたいと思います。
 さて、今は昔。医学部に入学して間もなく、小生が実家に帰省した際、最寄の駅(近鉄鈴鹿市駅)でかつて学習塾で同じクラスだった女性に偶然出くわしてしまいました。進学先を知っているのか・・・、一言「昔、馬鹿だったのにねー」と苦笑されました。小生の若かりし頃の無能な事実を赤裸々に表現されてしまいました。隠す必要性もなく・・・、その通りなんです。
 家族をはじめ、いろいろな方々にお世話になりました。迷惑もかけましたし、救ってももらいました。医師として働くチャンスを頂いたわけですから、猪突猛進するしかありません。しかし、高望みは禁物です。

2.白い巨塔

 時は流れて・・・、医師になってしばらくしてから、教授に成りたいと思った時期がありました。「白い巨塔」という映画をご存知かもしれませんが、教授選では壮絶な争いが繰り広げられています。残念ながら、その渦中に遭遇したことがありませんので、聞いた噂から想像するしかありません。実際はどうなんでしょうか?全然、分かりません。
 その後、就任された教授と比較して小生の資質が明らかに相応しくなく、当然に無理と悟りました。言い訳でなく、負け犬の遠吠えと表現するのが正しいでしょう。ここで、その理由を挙げてみました。
①人脈作りが不得意。(情報収集能力に乏しい。)
②一つのことに集中もできないし、こだわることもできない。(学者的でない。)
③留学できる勇気もなく、経済力もない。(小生の能力に自信が持てない。)
④語学力に乏しく、英文論文が自力で書けない。(実際に書いてはみたものの・・・、悪文の数々で雑誌に投稿しても門前払いされ、査読者から嫌味の一言まで告げられた。)
⑤後輩の面倒をみることが億劫。(小生みたいな先輩が指導することで後輩の将来を台無しにしてしまう不安が大きい。)
 少なくとも①~⑤の理由で落第点は確実。挙句の果てに、大学院時代の指導教授に「君はあまり賢くないね」とダメ出しされました。つまり、学者になれないと引導を渡されました。これでは、努力しても才能が伴っていなかったと反省して、高望みしたことを恥じました。
 それからというもの、医療現場で地道にやっていくことに生き甲斐を感じています。時々、講師を依頼されたことがありますが、講演している間、(学者の真似事に)つかの間の幸福感に浸っていました。

3.まとめ

 医者の不養生と言われないように、健康に留意しながら地域医療に尽力していきたいと強く思います。

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