医療法人社団 山中胃腸科病院

はじめに

令和4年4月1日、人生初めてのブログを開始することになりました。
山中胃腸科病院の齋藤孝仁でございます。

自己紹介

昭和44年8月24日生まれ
三重県鈴鹿市出身

著書:「勤務医にこだわる ~私の進化型総合
    診療構想~」(幻冬舎ルネッサンス新社)

趣味:終活活動
    第一幕は達成(~令和4年3月)
    第二幕は進行中(令和4年3月~)

今回は最初ですので、どうして医師を目指したのかという経緯を紹介しておきます。

医師を目指した原点 ~随筆 彼女のおまけ~

 平成28年7月、眼の病気をきっかけに終活の旅を始めた。一度きりの人生。できるときにやっておかないときっと後悔するから。
 令和元年10月14日、36年ぶりに愛知県犬山市にある野外民族博物館リトルワールドをめざした。前向きな気持ちを奮い立たせ、終活を成功させるという誓いを確固たるものにするために、どうしても一人で行きたかったのだ。小生の人生を変えたあの出来事を思い起こしながら…。
 時は、昭和58年4月にタイムスリップ。中学二年生に進級して、斜め右前の席にキュートな女子がいた。一目惚れ。疑いもなく初恋。この瞬間から小生の甘酸っぱい青春時代が始まった。彼女は少し気の強い性格という印象で数学が得意だった。
 同年5月、一学期の中間試験の数学で百点満点をとった彼女。どのような男子がタイプか聞いてみた。「頭が良くてピアノが弾ける人」という回答。少年の単純な心から、彼女に相手にされるためには「勉強で上回って、ピアノ伴奏できればいい」と安易に考えた。
 そんななか、社会見学でリトルワールドに行った。彼女の写真をとりたくてわざわざカメラを買って持参した。ところが、担任の先生に見つかって取り上げられてしまった。落ち込みながらも野外民族博物館を見学して回った。帰りのバスのなかで同級生が「あの素晴しい愛をもう一度」を独唱しているのをただただ悲しく聞いていた。この瞬間、惨めな小生に天が囁いた。そのまま素直に従った。短期計画として、ピアノを習った経験のない小生が「あの素晴しい愛をもう一度」のピアノ伴奏をすることを。そして、試験で彼女を超えることを。長期計画として、永遠に努力し、医者になるという夢を実現することを。
 それから、この二つの短期および長期目標を掲げた試練の日々が続いた。小学校時代の恩師に事情を話してはみたものの、「習っていない人には無理だよ」とあっさり宣告された。それでも自宅にある妹のピアノを借りて、楽譜にドミソなどと書いて右手だけで練習を始めた。ちょうどその頃、音楽の授業で「あの素晴しい愛をもう一度」が文化祭の合唱コンクールのテーマ曲と発表された。音楽の先生が両手伴奏し、ダイナミックだった。一方、小生の片手伴奏は貧弱そのものだった。違いは明白だった。それでもひたすら独学で練習に励んだ。
 同年八月、夏休みのある日。旅行先で彼女が転校する夢を見た。きっと正夢に違いない。一緒に過ごせる時間は限られたものと予感した。「何が何でも完成させなければならない」と奮起した。すべての時間をかけて勉強もピアノも自己研鑽していった。
 同年九月一日。彼女に変わった様相はなかった。本当に転校するのだろうか…。この時点では分からなかった。同級生に彼女が転校する夢を見たことを告白した。その晩、それまで流暢なメロディーに至らなかった伴奏に、まるで嘘のようにリズムが生まれた。エネルギーを急速に注入されたような不思議な感覚だった。そして、不完全ながらも伴奏できるようになったのだった。独学でマスターしたことになっても全く満足感はなかった。それからも当たり前のようにひたすら練習を続けた。
 同年十月。初心者ゆえの反対意見もあったが辛うじて伴奏者に決まった。先生に弱点や難点を部分的にアドバイスしてもらい、少しずつ洗練していった。弾き語りできるほどに何回も何回も繰り返し練習した。授業中、予行で伴奏する小生をときどきチラ見する彼女の視線を感じながら、その幸福感に浸っていた。決して油断を見せることはなかった。
 同年十一月下旬。運命の日。文化祭。合唱コンクールで「あの素晴しい愛をもう一度」のピアノ伴奏を辛うじて切り抜けた。短期目標の一つ目が達成できた。
 翌年(昭和五十九年)一月。年が明けて三学期。彼女は相変わらずキュートで少し大人っぽくなっていた。夢情報を信じて、限られた時間を精一杯生きた。
 同年二月。それまで中間および期末試験の勝敗は不明だった。最後のチャンス。高得点を求めて全力で勉強した。期末試験の六教科(主要五教科+音楽の計六百点満点)で合計五百七十九点だった。
 同年三月。三学期も残すところあとわずか。終業式の一週間前、同級生みんなで進級前のお別れの会が開かれた。実際は彼女の送別会だったそうで、小生には知らされていなかった。彼女の寂しそうな様子が印象的だった。運命の日と知らないままに…。その会の終了後、担任の先生より彼女の転校が告げられた。その瞬間、心臓が飛び出しそうになった。正夢だったのだ。高鳴る鼓動はなかなか止まらなかった。悲壮感を隠せなかった。
 その数日後、担任の先生に呼び出された。三学期の期末試験の結果をこっそり教えてくれた。学年単独一位の成績だった。彼女を超えた。そして、「チャンスは簡単にめぐってこない」という摂理を体感した。一度しかないチャンスはものにしなければならないと悟った。結局、短期目標の二つ目も達成し、「彼女に勉強で上回って、ピアノ伴奏すること」という短期目標は完結したのだった。
 終業式の朝、教室に入ると彼女は遠くから小生を見つめた。短時間だったが…。小生は、「いつかきっと会えるよね」と心で叫び、黙ってお別れをした。告白は考えていなかった。長期目標を達成したら、「必ず会ってくれるよね」というかすかな望みを心に抱いていたので…。
 時は流れて、昭和六十三年四月。高校卒業後、医学部入学に失敗し、惨めな浪人生活が始まった。疲労が蓄積し、心が折れつつ、だんだん焦りが出てきた。苦し紛れに藁をもすがる思いで喘いでいたとき、ふと原点を思い出した。「あの感覚だ。あの心構えだ。彼女に会えば、この状況をきっと打開できるはずだ」と確信した。
 幸運にも予備校の友人に彼女の高校時代の同級生がいた。夏の暑い日に会ってもらえる機会を得た。約束の日、桑名の喫茶店でアルバイトしている大学生の彼女に約五年半ぶりに会った。その時間は極めて貴重だった。彼女の励ましを受けた小生は、不思議にも心身ともに甦ったのだった。この時の素直な偽りのない気持ちを表現するなら、「傷つけることを何も言わず、語らず、迷惑がらず、小生に快く会ってくれた彼女に心から感謝する」だ。
 大学受験が近づいたある日、彼女の写真が友人を経由してプレゼントされた。中学二年生の時に手に入れることができなかった彼女の写真。時は流れていたが、あの苦い思い出がすべて報われた。最終的に人生最大の勝負に恐れることなく、受験に挑むことができた。
 平成二年三月末、苦節を乗り越え、合格したことを彼女に伝えに行った。それが最後の会話だった。長期目標(まだ、医者になっていないが…)も達成することができた。本当は合格してから再会するのが理想的だったが、それだけは守れなかった。彼女は小生におまけを付けてくれたのだった。
 大学に入ってからもこの気持ちを常に忘れず、あの時に誓った「永遠に努力すること」を胸に小生自身を信じて歩み始めた。
 ここで、タイムスリップを解除。二時間程度の限られた短い短い時間だった。小生を医者に導いてくれた片思いの彼女を思い出しながら…。そして、リトルワールドを後にした。
 これからも終活の旅は続く。感謝の気持ちをいつまでも純粋に持ち続けている。だから、努力もできる。更なる崇高な目標を達成できたら、もう一度、小生の心の故郷リトルワールドを訪れようと思う。

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