人形町・玉ひで――相席の朝
今から約二十五年前、東京・人形町にある軍鶏料理の老舗「玉ひで」を訪れた。妻と二人、まだ東京という街に少し緊張しながら歩いていた頃のことだ。朝早くから並ぶと聞いていたので、まだ人通りの少ない時間帯に人形町駅を出た。下町特有の古い商店と新しいビルが混ざり合った通りを歩くと、すでに店の前には行列ができていた。暖簾はまだ準備中のままなのに、人々は黙って、しかし確信をもってそこに並んでいる。ここに来る理由を、誰も疑っていない様子だった。
開店すると、流れるように店内へ案内される。混雑していて相席になることを告げられたが、不思議と嫌な感じはしなかった。むしろ、それがこの店の「作法」のように思えた。隣に座った見知らぬ客とも視線が一度だけ交わる。軽く会釈をするだけで十分だった。
ほどなくして運ばれてきた親子丼。蓋を開けた瞬間、甘辛い割下と軍鶏の香りが立ち上がる。卵は半熟で黄身と白身がとろりと絡み合い、米粒一つ一つを包み込んでいた。派手さはない。ただ、迷いがない味だった。
妻と顔を見合わせ、言葉少なに箸を進めた。「おいしいね」その一言で、すべてが足りていた気がする。周囲では、同じように黙々と丼に向き合う人たちがいる。観光客も常連も区別なく、皆が同じ一杯を前にしている。相席であることを忘れさせる不思議な一体感がそこにはあった。
食べ終えて店を出ると、行列はさらに長くなっていた。振り返って暖簾を見ると、そこには「また来い」とも「次はいつだ」とも書いていない。ただ、同じ場所で同じ味を出し続けているだけなのだろう。
二十五年経った今も、あの朝の光景ははっきり思い出せる。人形町の空気、並ぶ時間の静けさ、相席の気まずさと温もり、そして丼の湯気。旅とは、遠くへ行くことだけではない。
記憶の中に、こうして何度でも立ち返れる場所があることも、また旅なのだと思う。










