軍人ドクターの苦節苦年
人はときに、自分の人生を「選び続けた結果」として語り、ときに「選ばされ続けた結果」として振り返る。
私のこの数年(正確にはこの九年)は、後者の色合いが濃い。題して「苦節苦年」。苦労を積み重ねて節目に至ったというより、苦が年輪のように増えていった歳月である。
私は医師である。医者でない。一般内科を基盤に、消化器病(一部内視鏡を含む)、漢方、感染症、心理支援(認知症含む)と求められるままに技を広げてきた。総合的に診ることは美徳だと信じていたし、患者の前では専門の境界線など意味をなさないと考えてきた。
だが、医療の現場は理想だけでは回らない。役割分担は細分化され、専門性はラベルとして管理され、組織は「便利な人材」を静かに消費する。
とりわけ「コロナ禍」は、私にとって分水嶺だった。感染対策という大義のもと、医師の裁量は縮減され、現場には軍隊的な規律が持ち込まれた。命令は絶対、異論は非協力。私はいつの間にか「軍人ドクター」になっていた。疑問を抱いても、「考える前に動け、動いた後に反省せよ」という空気の中で、医師の思考は摩耗していった。
向上心がなかったわけではない。むしろ逆である。より良い診療を目指し、勉強し、提案し、時に踏み込みすぎた。その結果、評価が上がるかといえば、必ずしもそうではなかった。係を外され、役割を減らされ、静かにフェードアウトさせられる。声を上げない者は従順とされ、声を上げる者は扱いづらい存在になる。これはどの組織にもある現象だろうが、医療現場では患者不在のまま進行する点がより皮肉である。
私は真面目だったのだと思う。少なくとも真面目であろうとした。休暇を取らず、体調が悪くても出勤し、責任感を誇りにすり替えて働いた。今になって振り返れば、それは美徳ではなく、単なる条件反射だったのかもしれない。「誰かがやらねばならない」という言葉ほど、組織に都合のよい呪文はない。
その代償は、静かに、しかし確実に現れた。心身の不調、意欲の低下、適応障害という診断名。医師でありながら、病名を付けられる側に回ると、世界は一変する。患者に寄り添う言葉の軽さ、制度の隙間、善意の限界が身に染みて理解できた。皮肉な収穫であった。
それでも私は、現場を離れなかった。あるいは離れられなかった。惰性と責任感と生活が、絶妙な配合で私をつなぎとめていたのだろう。だが、評価はゼロに近づき、存在感は希薄になった。何もしなければ問題は起きないが、何かをしても評価されない。これは医師として最も消耗する状態である。
そして、いよいよ敗走。これ以上この環境に留まることは、医師としても一人の人間としても不誠実だと感じた。軍服を脱ぐ時期が来ただけである。
九年を振り返って思うのは、「苦節」は美談にならないという事実だ。耐えただけでは報われないし、我慢は評価項目に入っていない。むしろ、苦節を自慢し始めた瞬間、人は過去に縛られる。それでも私は、この「苦年」を無駄だったとは言わない。人間関係に疲れ、理不尽にさらされ、理想と現実の乖離に打ちのめされた経験は、今後、別の形で必ず生きる。少なくとも、患者や後輩に対して、同じ苦節を強いることはしない医師でありたい。
人生には、評価されない時代がある。ニーチェやキルケゴールが生前に正当に扱われなかったように、後になって意味を持つ時間もある。もっとも、私は哲学者ではないし、後世に名を残す気もない。ただ、自分の足で歩いてきたことだけは、否定せずにいたい。
「苦節苦年」。この言葉は、自嘲であり、記録であり、決別宣言である。軍人ドクターの末路としてはやや地味かもしれない。だが、白旗ではない。これは、次の戦場を自分で選ぶための静かな終戦なのである。










