無知の恥
国学者として著名な本居宣長(1730–1801)。
生涯にわたり松坂(現・三重県松阪市)で町医者としても活動しており、その医学的側面、とくに漢方(和方)医としての実践にも注目されている。
大先輩の漢方治療はどんな感じだったのか?
幼少より学問好きで、京都の医学者・奥村玄仲のもとで漢方を学んだ。帰郷後は、松坂で町医者として50年以上にわたって開業しながら、学問を続けた。
医術は「古方派(こほうは)」と呼ばれる流派に属していた。古方派は、中国・後漢時代の「傷寒論(しょうかんろん)」や「金匱要略」などの古典的な医学書に立脚した実証的治療を重視した。特に、「証(しょう)」、すなわち病状に合わせて処方を決定する立場で、煩雑な理論よりも臨床経験を重視した。
治療は、急性疾患に対する標治(対症療法)と体質改善などを含めた本治(根本治療)のバランスが取れていたと考えられている。
傷寒論に基づいた処方を使用しつつも、患者の暮らしや気質を読み取り、丁寧に病因を探った治療方針を採っていた。
主な処方は以下の通り。葛根湯(かっこんとう)を風邪の初期や肩こりに使用。小柴胡湯(しょうさいことう)を感冒後の微熱や胸脇苦満(季肋部痛)に使用。真武湯(しんぶとう)を冷えや下痢、心窩部痛に使用。桂枝湯(けいしとう)を虚弱な人の風邪初期の風邪に頻用した。
一日に20~30人を診ることもあったとされる多忙な診療の日々。「病人の話をよく聞き、慎重に判断することを重んじた」という記録があり、今日のプライマリ・ケアに通じる姿勢を持っていたとも言える。一方で、迷信的・呪術的医療には否定的であり、当時に科学的態度を保とうとした点で先進的であった。
以上まとめると、本居宣長は古方漢方を実践した実力派の町医者であり、単なる理論家ではなかった。彼の医療姿勢は、観察と対話、そして古典への深い理解に支えられた実証主義的なもので、「人を全体として見る」という現代的な医療倫理とも共鳴するものがある。
身近に学問好きな漢方医が存在しただけでも励みになるなあ。