桃太郎の故郷〜吉備路〜での発見
令和4年水無月
雉・猿・犬の話で有名である桃太郎は鬼ヶ城で鬼を打ち破り、金銀財宝を故郷に持って帰り、その後はどうなったのか。それには諸説あります。文豪と言われる人が書き表したものをご参考まで。(下記参照)
子供の頃、祖父の発案で私の家族と大阪に住む父親の妹の家族とで岡山を訪れたことがありました。当時は高速道路もなく車で国道2号線を西へ西へと向かいました。岡山市の北西に高松稲荷にある最上稲荷を目指しました。同じ敷地に最上稲荷山妙教寺が並んで建てられています。妙教寺は当家菩提寺と同じ宗派で、曽祖父が醸造業を継承するに当たり願をかけた寺であるとのことでした。
当時N H Kの大河ドラマで緒形拳が秀吉役の太閤記が放映され、高松城の水責め、本能寺の変や中国大返しは耳にしていました。参拝の道中に高松城の史跡を発見し、こんな所に堤を作り城を攻めたのかとおぼろげに記憶に残っていました。高校の時、上野盆地の四方の山に降った雨は木津川となって岩倉峡を経て島ヶ原・大河原・加茂を通り北上し京都山崎で桂川・宇治川と合流し淀川と名前を変えて大阪湾に注ぐ、地理の授業で説明を受けました。出口の岩倉峡で木津川の水を堰き止めると上野盆地は湖になり中央の河岸段丘の上にある上野白鳳城は水に浮かび美しい眺めとなると冗談で話されました。そのイメージと備中高松状の水攻めが重なって長い間頭の中に残っていました。
最上稲荷と吉備津神社を目当てに平成13年春岡山に向かいました。当時はカーナビ等ない時代で、あちこちと道に迷いながら最上稲荷に向かいましたが、その途中で偶然「緒方洪庵」の字を目にしました。
大阪に適塾(適々斎塾)を開き、江戸時代末期から幕末、明治維新にかけて活躍した偉人たちを輩出しました。自身も子供の時に天然痘に罹患しましたが、蘭学特に医学を学んだのち、世界的に流行していた天然痘の感染予防のために種痘の接種を積極的に推進しました。種痘は昭和の時代まで続いていました。小学生の時に受けた種痘の痕がまだ私の左肩に残っています。新型コロナウイルスの世界的な流行の時にこの話を紹介する機会を探っていたところに、“サル痘”のニュースが飛び込んできました。1980年に天然痘の撲滅が宣言されましたが、日本国内では1978年に種痘を終了しています。種痘を受けた人はこの“サル痘”には感染予防効果があり、感染しても軽症で済むとのことです。平成以降に生まれた方は御用心を‥。
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