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2022/12/15 ブログ

「ドリフ見習い」すわ親治さんの男らしさを見習いたい

 誰しもレギュラーにはなりたいものである。いつまでも補欠は気分がいいものでない。単なる補欠はつまらないし、スーパーサブと呼ばれても歯がゆい。すわ親治さんはときどき「ドリフになれなかった」と笑いをとっていたという。笑いは長寿のもとと言われるが・・・、複雑な心境になる。

 子供の頃からドリフターズが大好きであった。今でもインターネットで回想しながら、「ドリフ大爆笑」を鑑賞して、大笑いしてストレスを解消している。

しかし、ドリフターズの変遷として、荒井注から志村けんの交代で終了した。すわ親治さんの起用はなかった。いかりや長介の葬儀に出席しており、その際もドリフの正メンバー4人と一緒に棺を担いだ。

 一流になるのは難しい。レギュラーを夢見ていてもなかなか叶わないものだ。小生もレギュラーにこだわった時期もあった。なかなか回ってこなかった。その前に、望まない雑用が付きものであった。

 すわ親治さんは、ドリフターズの元付き人で、「ドリフ第六の男」とも言われた。「8時だョ!全員集合」を見て、ドリフに憧れ、音楽の要素の入ったお笑いを目指すようになったという。お笑い芸人を目指し上京。ドリフターズのバンドボーイに応募するも落ちた。それでもと懇願したら、加藤茶の運転手として採用された。1972年頃、いかりや長介に弟子入りし、付き人に昇格した。この頃、いかりやにより「すわしんじ」という芸名を与えられた。ギターに長けていたが、加藤茶が目立つようにドリフターズの音楽活動ではドラマーを担当することもあった。

 小生も消化器専門医であったので、消化器内視鏡のレギュラーにこだわった時期もあった。しかし、なかなか順番が回ってこなかった。そのため、他の専門医を獲得して一抹の不満を凌いだ。

 実は、すわしんじさんは「全員集合」のコントで、兄弟子の志村けんよりも先に舞台デビューしていた。ブルース・リーの物真似など奇怪なキャラクターで人気を博した(https://www.youtube.com/watch?v=gCndHC8O_4g)。奇怪な笑い方が特徴的であった。結局、正メンバーに昇格することなく、1986年に「全員集合」が終了した。
 その後、すわしんじさんは「加トちゃんケンちゃんごきげんテレビ」や「志村けんのだいじょうぶだぁ」にゲスト出演をしていた。志村はすわしんじさんのコメディアンとしての資質をいかりや以上に高く評価していたという。師匠のいかりやは、2年ごとに「いよいよお前の出番だ、身辺整理をしとけ」とメンバー昇格をにおわしていた。しかしながら先延ばしにされ、活躍の機会を用意できぬまま、脱退に追い込んでしまった。いかりやはひどく悔やんでいたという。

 しかし、結果は結果である。運もあるだろう。「鶏口となるも牛後となることなかれ」とはいうものの、阪神の代打川藤さんのような活躍の仕方もあろう。十人十色、365日の紙飛行機、一つだけの花、・・・。皆それぞれ。人生いろいろ。
 小生も残された人生(=終活)を名声抜きに楽しみたい。

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