方丈記と災害
本年早々、元旦の16時10分、携帯がうめいた。そして、くらくらめまいがした。コンビニに買い物に行く途中であった。ああ、地震だ。
すぐに買い物を済ませ、病院に戻ってテレビを見ると大津波警報。能登地方。どうゆうこと?めでたい祝日に。よりによってこんなときに。
津波は低そうでよかったなあ。安堵感が漂う。
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その晩、方丈記を読み直した。何で方丈記って?日本三大随筆だからね。そして、災害の記録が鮮明に書かれている鴨長明の名著だからね。
以下、抜粋。
また元暦二年のころ、おほなゐふること侍りき。そのさまよのつねならず。山くづれて川を埋み、海かたぶきて陸をひたせり。土さけて水わきあがり、いはほわれて谷にまろび入り、なぎさこぐふねは浪にたゞよひ、道ゆく駒は足のたちどをまどはせり。いはむや都のほとりには、在々所々堂舍廟塔、一つとして全からず。或はくづれ、或はたふれたる間、塵灰立ちあがりて盛なる煙のごとし。地のふるひ家のやぶるゝ音、いかづちにことならず。家の中に居れば忽にうちひしげなむとす。はしり出づればまた地われさく。羽なければ空へもあがるべからず。龍ならねば雲にのぼらむこと難し。おそれの中におそるべかりけるは、たゞ地震なりけるとぞ覺え侍りし。その中に、あるものゝふのひとり子の、六つ七つばかりに侍りしが、ついぢのおほひの下に小家をつくり、はかなげなるあとなしごとをして遊び侍りしが、俄にくづれうめられて、あとかたなくひらにうちひさがれて、二つの目など一寸ばかりうち出されたるを、父母かゝへて、聲もをしまずかなしみあひて侍りしこそあはれにかなしく見はべりしか。子のかなしみにはたけきものも耻を忘れけりと覺えて、いとほしくことわりかなとぞ見はべりし。かくおびたゞしくふることはしばしにて止みにしかども、そのなごりしばしば絶えず。よのつねにおどろくほどの地震、二三十度ふらぬ日はなし。十日廿日過ぎにしかば、やうやうまどほになりて、或は四五度、二三度、もしは一日まぜ、二三日に一度など、大かたそのなごり、三月ばかりや侍りけむ。四大種の中に、水火風はつねに害をなせど、大地に至りては殊なる變をなさず。むかし齊衡のころかとよ。おほなゐふりて、東大寺の佛のみぐし落ちなどして、いみじきことゞも侍りけれど、猶このたびにはしかずとぞ。すなはち人皆あぢきなきことを述べて、いさゝか心のにごりもうすらぐと見えしほどに、月日かさなり年越えしかば、後は言の葉にかけて、いひ出づる人だになし。
元暦1185年7月9日に起こった「文治地震」。マグニチュード7.4の大地震だったという。「土砂崩れ」「地割れ」「津波」「液状化」「建物倒壊」が発生したと描かれている。一日に20~30回も余震が起こり、3ヶ月続いたとも記されている。
そして、鴨長明は、世の人がしばらく前に起こった地震を忘れ、忘れたころにまた地震がやってきて、大きな被害を受けるのを繰り返してきたとも書いている。備えを怠らないようにという戒めなのか?
この文治地震は、元暦2年7月9日(1185年8月6日)の正午頃に発生した。壇ノ浦の戦いの約4ヶ月後に発生し、平家物語にもその記述が見られる。「この度の地震は、これより後もあるべしとも覚えざりけり、平家の怨霊にて、世のうすべきよし申あへり」と。特に、京都での被害がひどかったようで、白河辺りの諸御願寺や京中の殿屋などで九重塔や九輪などが破損した。遠国においても被害が発生し津波があった。
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翌2日になって、被害状況が顕になった。津波はすでに来ていたのだ。お見舞い申し上げる。
令和6年の能登半島地震において、
お亡くなりになられた方々
深い哀悼の意を表します。
被災された方々
お見舞い申し上げます。
また、被災地域で医療提供や支援活動に尽力する医療関係者をはじめ、すべての皆さまに心から敬意と感謝を表します。
一日も早い復旧、復興を心よりお祈り申し上げます。
齋藤孝仁
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