今年の目標の一つ「障がい者目線」
奇蹟の人
ヘレン・ケラー(Ms. Helen Adams Keller、1880~1968)
幼い頃(生後19ヶ月)、病魔(猩紅熱を契機に髄膜炎?)に冒され、聴力と視力、言葉を失ったヘレン。大きな障害を背負った彼女を、サリバン先生は暖かく励ました。ハンディキャップを克服し、博士号を受け、ヘレンは「奇蹟の人」となった。
グラハム・ベルはもともと聴覚障害教育の第一人者で、ヘレン・ケラーとアニー・サリバンを引き合わせた人物としても知られている。ちなみに、耳の日は、33(みみ)の語呂合わせや3が耳の形に似ていることと、電話を実用化したベルの誕生日から制定されたという。
目も見えず、耳も聞こえず、そのため話すことが困難という重度の障害「三重苦」を強いられながらも、その全生涯を教育と福祉、そして世界平和に尽力した。
猩紅熱の後遺症で、ヘレンの目と耳は永久に閉じてしまった。それでも、知性のひらめきを見せた。眼鏡をかけるまねをして父を表現し、後頭で髪を丸く結うまねをして母を表現した。
ヘレンは、昭和12年(1937年)、23年(1948年)および30年(1955年)の3回にわたって来日。1回目の(初来日の)時、財布を盗まれたという。この事件の報道後、盗まれた金額の10倍以上の寄付が日本各地から集まったという。また、塙保己一*の銅像と面会し、両手で銅像を触れたという感動的なエピソードがある。2回目の来日では、戦後間もない日本人に向け、全国で講演を行った。
*塙保己一(延享3年~文政4年、1746年~1821年、享年76歳)、武蔵国児玉郡保木野村 (現・埼玉県本庄市)生まれ
江戸時代後期に活躍した全盲の学者。7歳のとき、病気(肝の病)がもとで失明。12歳で母が亡くなり、15歳で江戸に出て学問の道に進んだ。多くの困難を経て、34歳で思い立ち、大文献集「群書類従(ぐんしょるいじゅう)」666冊をはじめ、散逸する恐れのある貴重な文献を校正し、一般庶民も読めるように次々と出版した。48歳時、国学研究の場として「和学講談所(わがくこうだんしょ)」を創設。多くの弟子を育て、生涯にわたって自分と同じような障害のある人たちの社会的地位向上に全力を注いだ。そして、文政4年(1821年)2月、盲人社会の最高位である総検校に就任。同年9月に天命を全うした。
ちなみに、温故学会に桜材による「群書類従」の版木が保存されている。その他、荻野吟子の女医誕生や小笠原諸島の日本領土証明に貢献したと言われる。
「世のため、後のため」という信念を貫いた塙保己一。豊臣秀吉や菅原道真を目指したという。